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杣人・somabito

Author:杣人・somabito
Nuages・・・雲のようにふんわりとしています

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『チェイシング リリー』 マイクル・コナリー

お元気ですか?

マイクル・コナリーの『チェイシング リリー』を読みました。『ナイトホークス』から数えて12作目。もうすっかりファンと言っていいでしょう。通常私は好きな作家という言い方をしてファンとは言わないのですが、少し照れ臭い気持ちを感じながらファンと言わせていただきます。

今回の『チェイシング リリー』はハリー・ボッシュシリーズやFBI捜査官のマッケイレブ、弁護士のミッキー・ハラーの作品群とは違い単独の作品でボッシュは出てきません。人物としては刑事弁護士に転身したジャニス・ラングワイザーが出てくるだけです。
しかしコナリーは決して読者へのサービスを忘れていません。読み進むと主人公ヘンリー・ピアスは『ナイトホークス』のドールメーカー事件と繋がりがあるのが分かり、コナリーワールドの一員たる理由を与えられているのです。読みながら思わずにやっとしてしまうコナリーの手腕です。

物語はナノテクノロジーの起業家ピアスにかかってきた間違い電話に始まります。ピアスは突き動かされるように興味を覚え、どうやら失踪したらしいエスコート嬢を探す始めるのですが、狂暴な男たちに暴力と警告を受け、さらには捜査に来た警察に逆に犯人扱いをされます。だれにも相談出きず孤立を深める主人公。その理由は子供の頃に経験したドールメーカー事件と深いつながりがあったことが分かります。
前半は事件を追うほどに孤立を深めてゆく主人公と人物が並びますが関係性は表面的です。読者としても想像を働かせるばかりで紐解くほどの情報はまだありません。それでも主人公に比べ読者に強みがあるのは物語のスタイルから犯人の想定が出来ることでしょう。マイクル・コナリーはこれまでの作品でも登場人物を無駄にしていないのでらすから一見関係なさそうな人物、物語の中でわき役に見える人物に逆転の場が隠されているのです。
主人公ピアスはついにリリーを発見するに至って、本当に自分が窮地に追い詰められていることを知り、なぜなのかと問いだします。探すことの熱中から覚め何故自分が事件に巻き込まれてしまったのかを考えだし科学者として分析評価するという自分に合った手法で真実にたどり着こうとします。これはとても好感の持てるところで、科学者が強面の探偵のような方法で犯人にたどりついてはいけないのです。コナリーは最後の最後に科学者らしいアクションシーンも用意していますけど。

さてこうゆう科学技術を織り込んだ小説を読む楽しさは振り返る楽しみです。作品は2002年に発表されています。マイクロソフトがWindows95を発表して世界中が一気にインターネットに熱狂し始めたころです。私も当時モデムやADSLといった通信手段の開発普及を追いかけるように使っていました。アメリカに旅行する際にもノートパソコンをもっていって友人の家やホテルでつないでアメリカ国内にいる友人に連絡をとったりして時代の変化を体験して楽しんだものです。
今回この物語を読んで楽しめたのにはそうゆう回顧的一面もあるのですが、コナリーの描く技術が決して陳腐化していないのも重要です。今から見るとピアスの最先端の研究と文中に出てくる通信技術は少しズレを感じなくもありません。しかしそれを上回る全体の確かさや時代を先取りした音声認識に役割を持たせていることなどにマイクル・コナリーの手腕の確かさが見られると思うのです。

照れ臭くもファンを自覚しだした一読者でした。

さて、これから図書館に『チェイシング リリー』を返しに行きます。そして『13・67』陳浩基を借りてきます。
マイクル・コナリーもそうですが、いつも教えていただいてるサイトに感謝を込めて。
本って本当にたのしいものですね。

ではまた。



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テーマ : 読書
ジャンル : 小説・文学

ささやかな願い 一年の初めに。

お元気ですか?

前回、私は世界が変化の流れのなかにあり、そうゆう時代だからこそ人間が持っている物語を創り伝えてゆく能力が大切だということを書きました。科学技術の進歩が私たちの生活を大きく変えてきたことは否定しません。しかし文学の世界、音楽やお芝居、絵画や彫刻といった芸術の分野は人間の今を表現し後世に伝えるとても重要な仕事なのです。そして後の世に立ってみると、この伝えられたことによって救われるのです。

先日テレビのニュースの中で音楽や演劇に携わる人へのアンケートをとったところ、3割以上の人が仕事の見通しがなく、自死を考える人も少なからず居るという報道がされていました。痛ましく悲しい話です。

私たちは便利という言葉と幸せという言葉をあいまいに混ぜて使っているのではないかと思っています。
蒸気機関が発明され鉄道が出来たのは約200年前、日本の鉄道は1872年開業ですから149年前です。その92年後、日本で東海道新幹線が1964年に開通しました。当時、東京から大阪への出張は宿泊しないといけなかったのが日帰りが出来るようになり体が楽になりますと宣伝されました。しかし実際にはどうでしょう。会社からは帰って来いと言われてもう少し余裕をもった出張がいたいと思うありさまです。
資本主義という経済システムが進み、社会主義も同じなのですが、経済の進化が人々を豊かにするかに思えましたが持つ人と持たない人の格差は広がりました。貨幣経済は便利ですが、その便利さの反対側で人々の分断は進んでいるのです。
私が子供の頃、買い物籠をもって近所のお店に買い物にいきましたが、次第にスーパーストアが並ぶようになりました。買い物籠はなくなり一つのスーパーでちょっとした日常の買い物は出来るようになりましたが、お使いを褒められておまけしてもらったり、お勧め品を教えてもらったりといった会話は減ってしまいました。

石油や原子力のエネルギー、経済、教育、私たちは便利とか功利、有用性をあまりに重要視しすぎていたのではないかと思います。その結果大学では基礎を学ぶ機会が減り経済的に利益が見えやすい学問が重用されています。就職では自分の本当にやりたいこと、仕事を通じての社会とのかかわりを考える前に、人気のある仕事や賃金が多くもらえる仕事を選んでしまい、結局転職を繰り返します。
私は自分の幸せと世界の幸せが重なる道はないかと探していますが、考えれば考えるほど今の世界とは違ったものを求めていかなけばならないように感じてしまいます。

1989年ベルリンの壁が崩壊しました。1991年にはユーゴスラビア紛争が起こり今もその余波は続いています。第二次世界大戦は東西ヨーロッパで難民という問題をあらわにしましたが、現在では全世界的問題になっていて日本も例外ではありません。この難民問題の解決にこそこれからの世界の幸せの道があると私は思っているのですが、その方法はどこにあるのでしょう。
科学技術の進歩により世界はすぐ隣になり、時差は感じなくなりました。地理的時間的制約は無くなりました。ならば世界は一つになることが可能です。
そして、世界が一つになるには隣の人の痛みを共有する心が大切だと思っています。隣の人を思いやる想像力、共感力です。科学技術が進歩するなら同じように人間の存在も進化しなければ私たちは科学に取り残されてしまうのではないでしょうか。

ユーゴスラビアを山のような日用雑貨を運ぶ出稼ぎの人たちと一緒に汽車で移動しながら、戦後日本の状況を思っていた私は、30年たった今も同じ問題を考え、もどかしさを抱えながら生きています。何も出来ていない自分への悔しさ。
今年は少しは進むことができるのでしょうか。山の中の神社にお参りしながら去年と同じ世界平和、世界の人々の幸福を願いながら。

ではまた。



テーマ : 今日のつぶやき。
ジャンル : 日記

新年にあたり

あけましておめでとうございます。

世界中に暮らす全ての人が新しい年に希望を持てて新年を迎えられていればと願っています。
昨年の1月9日、新型コロナウィルスを報じる第一報以来一年が過ぎました。まさに世界中が想像もしていない事態に遭遇したといってよいでしょう。2011年3月11日に起きた東日本大震災とそれに伴う原子力発電所で起きたメルトダウン以来、日本では想定外という言葉が当たり前になりました。天気予報では毎年のように続くゲリラ豪雨により「経験のない」とか「命を守る行動」という言葉が当たり前のように聞かれるようになりました。しかし、よく考えてみると予想もしない事態を予想して対応するのが「リスク管理」ですから、私たちの生活する世界を分析し、起こりうるまたは起こりえない事態、を整理し理解し準備することが大切ですし当たり前のことなのです。もしそれをしていないとするならばそれは私たちの傲慢であり油断なのではないでしょうか。

今回の新型コロナウイルの世界的蔓延を経験のない事態だと思うかもしれません。しかしペストの流行を思い出してカミユやダニエル・デュフォーの本が本屋さんに並んだり、スペイン風邪の流行の映像をテレビで見ると、今回の事態は経験のないことではなく人類が極めて近い過去に何回も経験してきたことだと知るのです。

私の知り合いの女性が「私のお婆さんが外出するときは何かしら食べるものをもって出なさいと教えてくれた」と話していたのを北陸自動車道で吹雪のために動けなくなった車の映像を見ながら思い出していました。関東大震災や太平洋戦争を経験してきたお婆さんの言葉です。
私たちは日々新しいことに出会います。楽しいこともあれば苦しく悲しい事もあります。でもそれらのほとんどは過去に経験したことなのです。

今私たちは大きな流れの中にあるように感じています。世界各地の紛争や内乱、移民問題や分断、アメリカでトランプ大統領によって引き起こされたこの4年間の出来事も歴史的に見れば世界に内在していた問題を表面に噴出させたものであってトランプという個人による問題ではないように思います。それはトランプを支持する人たちの数と熱狂からも想像できます。
そして世界中の人々がそのことを知っていて、自分の住む身近でも同じ事態が起こっていることに言葉にならない不安を抱えているのです。

私たち人間は急速に進化しているように見えます。潜水艦による海底探査や月世界旅行を描いたフランスの作家ジュール・ベルヌが亡くなってからまだ115年しかたっていないにもかかわらず、私たちは宇宙の果てを見、DNAを書き換える科学技術を手にしています。哲学もこの50年ほどで重要な変化を試みてきたと言えます。
しかし、私たちはいまだに日々の生活に苦労し、どこに向かっているのか、向かえばいいのかを見つけられないように思います。宗教はSNSによる「繋がり」よりはるかに脆弱に思えます。今まで様々な宗教が教えている大切な事はそれぞれの宗教を必要とする人々に有効でした。しかし今私たちは宗教の教えよりSNSの「いいね」に救いを求めてしまっています。しかも宗教を理由に戦争をしてきたように、SNSに載った言葉で争いをし自殺に追い込まれてしまったりしています。人間は科学も宗教もどちらも自分の幸福のために使いこなせていないように思えます。

経済は人々の暮らしを豊かにし幸福にするように思えました。資本主義を標榜する国々ではお金という道具を駆使することで豊かになるように思ってきましたがここにきて必ずしも全ての人が幸せになっていないことが分かってきました。共産主義の手法を取り入れている中国もお金もうけで富を増やそうとしているのは資本主義の国と全く変わりません。残念ながら現在の経済システムでは人間の幸福を世界的に実現するには程遠いと思えるのです。

ここ数年日本の学力の低下が話題になったり、基礎研究の不足が伝えられています。大学では研究者が育たない環境も問題視されています。学部で言えば理科学系の学部の偏重がみられ文学部の存在すら危ぶまれています。
しかし、いわゆる文科系といわれる法学部、経済学部などは人々の生活に直結した学問でこれらの研究が停滞することは幸福の探求を放棄することにほかなりません。では文学部はどうでしょうか。

今回コロナ禍の下で私たちは芸術活動がいかに人間にとって大切なものであるかを改めてしりました。音楽にしろ演劇にしろ私たちにはなくてはならない生活の一部なのです。
では文学とはなんでしょうか。私はほかの様々な学問と同様、もしくはその根幹の学問として文学の研究を大切にしなければならないと考えています。なぜなら人間は物語をつくる生き物だからです。
私たちは長い人間の歴史の中、いつも物語を語り伝えてきました。言葉が十分でない時代には洞窟に絵をかいて伝えてきましたし、文字をもたない民族は口承というかたちで物語をつたえてきました。神話の時代には神々の物語を伝え経験や思いを伝えてきました。それらはすべて人間の知恵であり財産であり人間そのものなのです。
ですから、文学をなにかの尺度にあてて他の学問に比べて劣るとか必要性が低いなどと思ってしまうことは大変な間違いなのです。文学こそその存在意義を真剣に訴えなければならない学問はないと私は思っています。
学問は社会の変化に伴い生まれてきました。法学は神の教えと密接にかかわりながら発達しましたし、経済学は産業革命を機におおきく進歩しました。数学や天文学、物理学などは真理の探究という人間の素晴らしい特質の表われです。
そして文学は人間が創造力をもつ生き物で、物語という人間が発見した素晴らしい道具をもちい人間に知恵や経験や感情を伝え残すというかけがえのないものなのです。
今回のコロナウィルスは世界中のスーパーコンピューターで解析され、ワクチンが作られいずれは収束するでしょう。
しかし、本当に大切なことは今回の災禍を世界中で記録し伝えることです。今の人々はそれにより経験を共有し癒されることでしょう。未来の人には私たちの反省を伝え警告を届けることができます。ペストやその他の災害災禍を長い歴史の中で語り伝えてきたように、世界がおおきく変わろうとしている現代こそ文学が必要とされる時代はないのです。

私はぜひ人間が持つ物語を作り伝えるという素晴らしい力を活かして、これからの時代を乗り越えていただきたいと思っています。


ではまた。

テーマ : 今日のつぶやき。
ジャンル : 日記

梨木果歩を読む・・・「渡りの足跡」

お元気ですか。

今日は2020年12月31日 窓の外は青空に陽がさし庭の常緑樹がきらきらして明るいのです。おせち料理もほぼつくり終わり私がお手伝いする場面はなくなりました。
それでは少し自分の世界に浸りましょう。

今年、梨木果歩さんの本を読みたいと思ったのは自分の心の整理をする手助けを彼女の本を通じて行いたかったからでした。文庫本や単行本十数冊をすべて手放したのは引っ越しなどの理由もあったのですが、やはり好きな本は身近に置いて読み返したくなります。梨木さんの本は読みながらキーワードを自分なりに見つけ、それは必ずも文中に出てくる言葉ではないのですが、心に浮かんできた言葉を手掛かりに私の心の思索、心の組み立てをしながら読むのが楽しいのでした。そして彼女が河合隼雄さんのお弟子さんであることを知ると、私は自分流の梨木さんの本の利用方法に確信を得たのでした。

今回何冊か買い直した本の中で私が特に心沿うたのは彼女が英国留学の経験を軸に書いた「春になったら苺を摘みに」とカヌーイストでもある彼女が渡り鳥の話を書いた「渡りの足跡」です。この二冊の中に「それぞれの戦争」「渡りの先の大地」という二つのエッセイがあります。梨木さんは新幹線で偶然ある日本人と知り合います。カルフォルニア生まれの日系人で、アメリカ市民であるにも関わらず第二次世界大戦がはじまると財産が没収され強制収容所に入れられた方でした。そしてそのエッセイを読んだ日本の方が手紙を送ってきたことから二つ目の話は始まります。手紙を送ってきた方の父親は梨木さんが出会った人と同様アメリカで収容所生活を送り、そうゆう侮蔑的扱いを受けたにもかかわらずアメリカへの忠誠を誓うかどうかを問われ、挙句のはてに日本への強制送致という過去を持つ方です。
「春になったら苺を摘みに」にはロンドンの小さな町で起こる様々な出来事を通じて多様性とアイデンティティが描かれています。その中に織り込まれたアメリカでの日系人の強制収容所の話は場違いなくらいに重く感じられます。そして「渡りの足跡」に描かれたつづく話を読んで、私は気づくのです。これは父の話であり私の話だと。

人はそれぞれの事情の中で住むところを変えます。進学や就職、結婚や転勤など自分自身の意思で変える場合もあればそうでない場合もあります。人生の中での選択であるときもあればたまたまな場合もあります。そしてそのいずれの場合でも環境のなかで個々人の存在のアイデンティティをかけて居場所を確立してゆきます。
私は梨木さんの本を読みながら、父のことを思い出していました。故郷を離れ東京で就職し、満州にわたり徴兵され、シベリアへ抑留4年を経て日本に戻りますが故郷に父の居場所は無く北海道に渡り仕事を得て生涯を送ります。幼いころの記憶では父は両親への尊敬と思慕深く故郷を愛していました。その気持ちはとても真っすぐで我が親ながら気持ちの良いものでした。しかし長じて父の歴史を調べると必ずしも平和な心境ばかりではなかったことが推測されるのです。
父はどのような思いをもって「渡り」をしていたのか。

私にしても同様です。子供のころから函館湾に行き来する船や町中にある様々な国の教会、建物を見て育ち旅立つことを心の中に植え付けて育ちます。東京で長く暮らし、今は妻の実家のある土地に暮らしています。それはまさに自分が生きていくために選んだ「渡り」に他ならないのです。
そして「渡り」は住処のことだけにとどまらないと私は考えを進めます。思考にも「渡り」はあるのではないかと。
子供の頃本が好きになっていった記憶から始まり、興味を持ったり勉強していることが多角的重層的に変化していくことこそ「渡り」ではないのか。「思考の渡り」「知の渡り」と言ったら少し大げさかもしれませんが、私たちが行う思索が新しい思索を導いたり思索と思索を重ねて統合したりということはまさにそうゆうことだと思えるのです。

梨木果歩さんの本を読みながら、自分の思索の整理をしようと思っていたら「渡り」というテーマに出会いました。そのテーマはまさに今私が生活をしながら実践的に見つけようとしていることに合致しています。そうゆう出会いと気づきを私は一つの潮流と理解していますが、今回の潮流は私をどこに運んでゆくのでしょうか。

年末最後の日、そんなことを思いながら過ごしています。
皆様に良いお年がおとずれますように。

テーマ : 読書
ジャンル : 小説・文学

「暗く聖なる夜」 マイクル・コナリー

お元気ですか。

前作で驚きの終わりかたをしたボッシュシリーズですが、続く作品といっても2003年の本ですから主人公ボッシュが警察を辞め私立探偵になっているのはすぐ分ってしまいました。それでもちょと驚いたのは一人称の文体になっていたこと。最初戸惑いながら読み進みます。

私立探偵といっても誰かの依頼を受けてではなく、刑事時代に未解決のまま離れてしまった殺人事件を調べなおそうというのが今回の発端です。映画製作会社で働く女性が何者かに襲われて殺害された事件。調べるうちに映画撮影現場から200万ドルが強奪された別の事件との関係が浮かび上がっていきます。しかもその現金強奪事件はたまたまボッシュが居合わせ銃撃戦になったものでした。二つの事件が絡み合って真実が明らかになるのかと思えた矢先、ボッシュは元同僚の女性刑事の訪問を受け、事件の捜査を止めるようにと伝えられます。別な組織の得たいのしれない圧力がボッシュの周りで動き出します。

警察を辞め新しい空気で物語が進むのかとおもいきや、そう簡単にガラッと変わるはずもなく警察時代の事件を追うというのは自然な流れでしょう。読者にも優しい配慮ですし関係する仲間の配置にも作者の思惑が見えるようです。
しかし本作で最も注目しなければならないのは作品の発表された年だといえます。ボッシュシリーズでは2001年に「夜より暗き闇」、2002年に「シティ・オブ・ボーンズ」が出版されていますがこれらの作品には貿易センタービル等に行われた旅客機によるテロ攻撃に端を発したアメリカの変化は書かれていません。現在私たちは2001年9月11日以降アメリカが宗教や人種に対して明確に警戒感を持ち、レッテルを貼り恐れてきたのを知っています。その反応は他国での報復戦争となり、国内外での情報収集という理由の下でのプライバシーの侵害、人間が持っている自由や尊厳を脅かす政府機関の活動を容認することにつながっていったのです。
私が驚き感心するのはこの「暗く聖なる夜」の中で、まだアメリカが対テロという旗を熱狂的に降っている最中に、政府捜査機関が誰にも知られずに活動することの危険が内在していることをはっきりとボッシュに言わせていることです。人間は自分たちが信じる正義のもとで簡単に最も恐ろしい過ちを犯す生き物です。だからこそ私たちは自分たちの行動を検証しながら一歩一歩進めてゆかなくてはならないのです。
文化芸術作品というのは私たちの心を豊かにしてくれるものですが、同時代に生きる作者の強いメッセージの場でもあります。マイクル・コナリーのボッシュシリーズはどちらかというと娯楽性の高い読み物かもしれません。しかしこの作品により作者が高い見識と意思をもっていることを改めて知ることが出来ます。その意味でも「暗く聖なる夜」はマイクル・コナリーの作品の中でも重要な意味を持つ作品といえるのです。

さて、私はマイクル・コナリーの作品を「転落の街」から読み始めました。この作品にはボッシュの愛娘が芯の強い素敵な女性に成長してきた様子が描かれていました。実はボッシュシリーズを最初から読み始めようと思ったきっかけはこのボッシュの娘の存在だったのです。今回、そのお嬢さんが初めて登場してきました。やはり驚くかたちで。
これからはボッシュの活躍と一緒にボッシュの御嬢さんマデリンの存在が心そそるものとなっていきます。ますますボッシュシリーズから目が離せなくなってしまいました。
ほとほと読者を楽しませるのがうまいマイクル・コナリーです。

ではまた。


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ジャンル : 小説・文学

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