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杣人・somabito

Author:杣人・somabito
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弓道・・・円相・十牛図に学ぶ (その3)

お元気ですか?

「弓道・・・円相・十牛図に学ぶ」を続けます。


8 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
Oxherding_pictures,_No__8

追い求めていた牛が消え仏性・悟り・真理といったものが、自分と一体であったことに喜びを感じています。すると、突然自分自身も消え、同時に認識していた世界も一瞬に消えてしまいます。滅我・無我。絶対的「空」がそこに広がるばかり。円相の図をもって表していますが、円ですらないといえましょう。「空」となった私たち。認識すらありません。

射法八節に法り弓を引いてくると、離れの瞬間が訪れます。会に入り無限の気持ちで伸び合っていると射手の意識を離れて矢は飛び出してゆきます。この離れの瞬間射手はゼロになります。
射技に拘泥し、中てようと的を意識したり、これなら中るかなと離れを作ったりすると正しい離れに出会うことはできません。たとえ的に矢が中ってもそれは求める射にはならないのです。弓道ではこの離れの瞬間の「空」「無」を体現するのです。
 

9 返本還源(へんぽんげんげん)
Oxherding_pictures,_No__9


ここに至って、また草木が芽生え鳥が歌い自然が生まれてきました。再生です。これまでの修行で自己を求め、悟り、仏性を探し求めてきて「無」に至ったのに、行き着くと当たり前の自然の姿が広がるのです。再生であると同時に、本来あるべきものがあるように現れたということでしょう。有相無為。

離れで空っぽになった射手。体も心も伸びあっています。矢が放たれた後も弓手は的へ勝手は裏的へ左右に伸び、足は地に根の生えたように吸い付き、背筋は天に伸びています。空っぽになった射手に次第に気が満ちてきます。残心です。
気合の満ちた残心を感じ楽しみながら、退場します。


10 入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)
Oxherding_pictures,_No__10

十牛図の最後。入てんとは市場のことです。垂手はぶらりと下げた手。手には酒の入った瓢箪をもち、自由気儘な姿をしています。悟りを求め、自己を探して修行をしてきた末に、自他を超え自由自在な姿になる事が出来たのです。
しかも、目の前には童子がいます。童子はかつて仏門を志した私の姿であり人の世界です。悟りを得、求道からも自由になった今、人と交わり徳を広めてゆく菩薩の世界が始まります。「尋牛」から始まった十牛図は、「入てん垂手」で終わるのではなく円還していることを示し、修行によって得た喜びが人々にあまねくしみてゆくのです。

弓道を通じて経験する喜びは計り知れないものがあります。射法射技の研鑽や礼法にのっとった体配により道理を学ぶことも喜びです。経験者は自らの体験を続く者に教え道を照らし修行の手助けをするのも大切です。私も先生先輩から多くのことを学んできましたし、時にそれを伝えて指導することもあります。何時までも終わりのない道、繰り返しの道です。

弓道は「仁の道」と言えます。弓道の修行によって徳行を修め、それを修学の徒に伝えてゆく。つまり人の世界とともにあるということです。射位に立って的に向かうときは一人かもしれませんが、道場には仲間がいます。その道場は地域、社会の中、人の世にありますから感謝とともに社会に恩返しすることが弓道の道でしょう。その意味で、私は弓道を「菩薩道」と言っています。

道場での練習や射会に出かけたりすると多くの仲間と弓を楽しむ事ができます。そうゆう方のなかには、八十歳を越えてなお弓を楽しんでいる方も多く何時もにこやかでこだわりがありません。
当たり前なことですが壮健な射というわけにはいきません。体のあちこちは痛く、腰もまがっています。しかし弓を楽しんでいます。射会に集まり仲間と挨拶を交わし世間話を楽しんでいます。
私はこの大先輩達に接するとき、そこに明らかな「菩薩道」の弓を知る事が出来るのです。


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弓道・・・円相・十牛図に学ぶ (その2)

お元気ですか?

「弓道・・・円相・十牛図に学ぶ」 を続けます。

4 得牛(とくぎゅう)
Oxherding_pictures,_No__4

牛に縄をうち、捕まえましょう。わずかに知ることの出来た仏性・真理は大変危うくすぐ見えなくなってしまいます。目を凝らすと見えていたものも、凝らすほどに見えなくなります。これは私たちが仏性に対峙しているから。自我が見えることを邪魔しているのです。

弓の練習をしていて思いがけず良射が出ると、狐につままれたように「何が起こったのだろう」と思います。そして今の射を再現しようと技術をもって取り組みます。しかし、どんなにやっても同じものは現れてきません。何故か。“思いがけず”というのが肝心なのです。射技をもって再現しようとする事は自分の意思の働きによるもので、自己・自我が存在します。これでは滅我の射から遠くなるばかりです。ではどうしたらよいのでしょうか。練習しかありません。ひたすらに練習を重ね滅我の射、「空」が向こうから現れてくれるのを待つしかないのです。


5 牧牛(ぼくご)
Oxherding_pictures,_No__5

牛は次第におとなしくなり、縄を緩めてもついてきます。仏性・真理に対峙していた自我を空なるものと知ったときそれは中でも外でもなく私たちと一体となり満ちていることが分かります。しかし、まだ安心はできません。「空」と知った「私」がいるからです。「私は悟った」と思った瞬間、妄執となって私たちに襲い掛かってきます。ゆるんだ手綱の先の牛を感じながら歩かなければなりません。

弓を練習するとき、私たちは一つ一つの動作を確認します。射法八節という型を学び、呼吸の使い方を意識し練習を重ねます。練習が習熟してくると、次第に射法八節の型も呼吸も意識しないで出来るようになります。しかし「意識しないでも出来る」と思った瞬間、「意識」が鎌首をもたげ迷いが表れだします。もちろん漫然と引いているのではありませんがこの「意識」を忘れる事が重要です。技の働きを意識することを捨て「私」を忘れたときにそれは自分のものになり一体となるのです。


6 騎牛帰家(きぎゅうきか)
Oxherding_pictures,_No__6

牧牛によって牛との関係が築かれ、牛の背に乗れるまでになりました。この一体感を楽しみながら村へ帰りましょう。仏陀も悟りを開いてなお思索をつづけ、悟りの内容を整理したといいます。

滅我の射が実現すると、射がとても楽になります。弓を執り矢を番え引いて離れる。あるがままにあるだけです。足踏み胴造りは自然に立っているだけ、打起して引き分けてくる姿はどこにも力が入っていないようです。心の働きもことさらに思い定めることがありません。
「無心 無策 無作為」といわれる境地でしょうか。


7 忘牛在人(ぼうぎゅうそんにん)
Oxherding_pictures,_No__7

家に帰り着き、牛をつないで気がつくと牛は消えていなくなりました。自己を探し、悟りを追い求めることすら忘れてしまった清清しい気持ち。仏性、悟り、真理といったものが「私」の中に在り一体となっているのです。

弓を執り射位に立つと的と向き合います。的は遠くはなれていますが、練習を重ねると距離を感じなくなります。的はただそこにあるもの。次第に的を意識することが無くなります。上手く引こうとか中てようという気持ちもなくなります。しかし、弓道ではいつも的があり消えることはありません。射手は目の前にある的を見、心に映る的を見てその強弱大小を自らに問いながら、的に囚われないための練習をするのです。



続きます。

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