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杣人・somabito

Author:杣人・somabito
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食本『三四郎』 東京逍遥 2

お元気ですか?

朝、窓を開ければ明るい日差しに穏やかな空気。
そよとふく風を楽しみながら子供たちの通学の声を聞く。
階下からはパートナーさんの朝食を用意する生活の音。

何気ない日常ですが、
遠い欧州の経済問題や隣国韓国・北朝鮮の問題が一転悪化の動き。
実は朝鮮半島の南北戦争は終わっているわけではなく停戦しているだけ。
それぞれに加担した中国とアメリカにしたって軍事的には対立したまま。
国際社会という枠のなかで、綱渡りをしているに過ぎない。

およそ人間の歴史を観て悲嘆に過ごすのは疲れるから、
今日は、しばし趣向の世界に遊ぼう。

と、食本『三四郎』の東京逍遥の続きです。
前回「東京逍遥編」を描いていて、ちょっとはがゆく思っていました。

文章として全然深みがありません。内容がうすい。
私の得意とする缶詰が登場して「福神漬の缶詰」の項はちょっと新しい発見と喜んでいるのですが、
それにしても缶詰そのもののイメージが明確でない。
その他のところは、『三四郎』から抜き出して、ちょっと付言しただけ。

原因の一つは『三四郎』の読み込みが足りないせいでしょうか。
ならば、と今回は三四郎と一緒に本郷を歩くことにしてみました。

今回、強い見方に明治時代の地図を用意します。
検索で明治時代の地図と探すと、gooの地図でよいのがありました。
私はパソコンを二台机に並べているので、一台は明治時代の地図、もう一台は現代の地図を開き
見比べながら進めることにしました。

DSCN0599_convert_20100524063501.jpg  DSCN0596_convert_20100524063429.jpg



では、『三四郎』の頁を開きましょう。

野々宮氏を訪ねるくだりです。
「午後四時ごろ、高等学校の横を通って弥生町の門からはいった。」とあります。
第一高等学校は現在の東京大学農学部のところにあり、言問通りを東に進み、
上野のお池の方へ下ると、「弥生町の門」があります。現在の弥生美術館の前です。

その門を入り真っすぐ進むと左手に野々宮氏の理科大学があり、
小使さんの案内を得て野々宮氏と面会を果たし、「福神漬の缶詰」を覗くことになります。

野々宮氏の研究室を辞した「三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ」のですが、
ここで「赤門の前を通るはずの電車は、大学の抗議で小石川を回ることになったと
国にいる時分新聞で見たことがある。」
と思いだします。

明治時代の地図を見ると、はたして本郷通りに電車の線路は無く
湯島から伸びて来た線路は春日通りを走る線路に接続して終っています。
この三四郎が思いだした新聞もどの新聞なのか調べる価値は高いのですが、今回は行いません。
別の機会がありましたら探してみたいですね。

さて、この池の傍で三四郎は女性を目にとめ、しばしぼんやりしていると
野々宮さんがやってきて
「これから本郷の方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」と誘います。

三四郎と野々宮さん。
「二人で坂を上がって、丘の上へ出た。野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって
向こうの青い木立のあいだから見える赤い建物と、崖の高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して」

と池を超えて医科大学の方へ抜けてきます。

そして
「ちょっといい景色でしょう。あの建築の角度のところだけが少し出ている。
木のあいだから。ね。いいでしょう。君気がついていますか。あの建物はなかなか
うまくできていますよ。」

と野々宮氏の建築に対する審美眼を披露します。
これだけ言われたら、どの建物か知りたくなりませんか?

木立ちのあいだから見える赤い建物ですから、池ごしに見える煉瓦作りの建物ということになります。
工科よりいいということですから、医科か理科なのですが、赤レンガですから理科大学でしょう。

ここに写真帖『東京帝国大学』というサイトがあります。どうぞお楽しみください。

きっと当時の新聞の読者も帝大を散策する三四郎をまぶしい思いで想像したのではないでしょうか。

続けて「二人はベルツの銅像の前から枳殻寺の横の電車通りへ出た。」とあります。
ベルツは所謂招聘学者で、日本の医学の礎を築いた人です。
明治40年に同じ外科のユリウス・スクリバの像と並びおかれましたが、
医学部の新築に伴い60メートルほど移動されて現在の場所に移されています。

枳殻寺(からたちてら)とは、麟祥院の事です。
二人は、心字池(三四郎池)から真っすぐ春日通りまで出てきたのですね。

春日通りで電車の喧騒を笑う二人は、本屋さんで立ち読みなどをしながら本郷三丁目、西の方へ向かいます。

「四角へ出ると、左手のこちら側に西洋小間物屋があって、向こう側に日本小間物屋がある」本郷三丁目の交差点で、
「あすこでちょいと買い物をしますからね」と野々宮氏は道を渡り小間物屋に入ります。

「本郷もかねやすまでが江戸のうち」と川柳にも読まれた有名店かねやすです。
江戸時代、兼安祐悦という歯科医師が乳香散という歯磨きを売って繁盛した老舗で、
野々宮氏は「蝉の羽根のようなリボン」を買います。
なんだか、はりまや橋みたいですね。

ちなみに「かねやす」には元祖争いがあって、
本郷はひらがなで「かねやす」と書くのが今につづいているそうです。

リボンを買った野々宮氏につれられ、三四郎は食事をします。
「それから真砂町で野々宮君に西洋料理のごちそうになった。
野々宮君の話では本郷でいちばんうまい家だそうだ。」
とあります。
話の都合上、先をつづけますが、
「西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰るところを…」とあります。

ここで、三四郎が馬込追分に下宿していることがわかります。

馬込追分には、松山藩主久松家が藩士の子弟のために建てた「常盤会寄宿舎」がありました。
夏目漱石は、帝国大学の学生時代に正岡子規と知り合い親交を結ぶのですが、
正岡子規はこの「常盤会寄宿舎」に下宿しており、漱石を呼んでは試験勉強の手伝いをさせ、
そのお礼に西洋料理屋でごちそうをしています。

正岡子規は明治35年9月、夏目漱石がロンドン留学中に亡くなっています。
三四郎の下宿を駒込追分におき、西洋料理を野々宮氏と食べるくだりは、正岡子規への追悼なのでしょうか。

残念ながらこの西洋料理屋の名前やどんな料理が出たかという調べがついていません。
「常盤会寄宿舎」は日立の研修所となっており真砂中央図書館の近くにあります。


いかがでしょう。
今回は三四郎が野々宮氏に挨拶に行った四時から夕食を御馳走になるまでを
一緒に歩いてみました。

一つ一つの言葉を確認しながら読んでみると、理解が深まるきっかけが出てきます。
「福神漬の缶詰」は今では想像がつきませんが、当時は全国誰もが知っているものだったのでしょう。
読者の分かりやすさを手助けする喩であったはずです。

「かねやす」を登場させたのはやはり名の知られたお店を登場させ
ちょっとはいからな感じを出したのでしょうか。
読者の中には上京したらかねやすでお土産を買いたいと思った人もあったことでしょうね。

本を読むとき、分かっているつもりで読み飛ばすところもあらためて調べると
思わぬ発見があって面白いですね。

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ジャンル : 本・雑誌

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