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杣人・somabito

Author:杣人・somabito
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『ワン・モア』と『起終点駅ターミナル』

お元気ですか?

私の部屋には温度計がありません。当地は2日ばかり涼しい風が吹いているのですが、iphoneで天気予報を見ると29℃。このアプリは何処からデータを持ってきているのでしょう。便利だと思いながらも、やはり温度計を自分の目で見て確かめたくなります。

桜木紫乃さんの『ワン・モア』と『起終点駅ターミナル』を読みました。桜木さんは北海道在住の作家で、去年 『ホテルローヤル』で第149回直木賞を受賞しています。釧路など道東を舞台にした作品を多く書かれているようですが、私が桜木さんを読むのは函館に行く前に『凍原』を読んで以来です。釧路湿原をベースにして登場人物の心の重さを表現する上手さを感じ好感を持ったのですが、函館に居た時に地元テレビ局のインタビューを見ました。行きつけの喫茶店でのアナウンサーとの会話は笑いを含みながら女性らしい柔らかさがあります。しかも時折出てくる作家らしく選ばれた言葉がなかなか感心するもので、テレビを見ながら私はへぇこうゆう人なんだと楽しくなっていました。

今回読んだ二つの作品は短編です。『ワン・モア』は2010年、2011年に「野性時代」に書かれていたもの4編と書き下ろし2編との6編。医療事故で離島に左遷された女医、その友人で親を継いで開業医となる女性らを中心に男女のつながりを軸に物語が描かれます。それぞれは独立した短編ですが物語が交差しながら6編が一つになっていきます。『起終点駅ターミナル』は死がモチーフです。人の死によって変わる残された者の姿が様々な形で描かれます。北海道の土地柄、空気を充分に活かした作品で短編ですが読み応えのある作品です。

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老いの傍で・・・その3

お元気ですか?

朝、食事を終えて谷川俊太郎の本を読んでいるとベランダの庇の上で雀が喉から声を絞り出すように鳴いている。誰かに何かを伝えたいのだろか、それはもう必死なように聴こえる。家のむこう、ここからは見えない木々からなのだろう蝉が鳴いている。蝉の寿命が地上に出てから1週間というのが嘘だというのを最近知った。1か月ぐらいは生きるのだそうだ。だとするとそれはそれで酷く悲しい事のように思う。1か月も必死に鳴き続けなければいけないのだから。命をつなぐためだけに必死に鳴き続けなければならないのだから。


週末は本を読んだり映画をみたりしながらのんびりと過ごします。時にはパートナーさんと買い物にも出かけたりしますが、素敵な洋服を買ったり憧れていた食器を買ったりということはもうすっかりなくなっていますので、うきうきとかどきどきといったものではありません。それでもたまに頂き物などで思いがけないものが我が家に届いたりしますと、ちょっと愉快になって二人で「今日はパーティーだね」なんて言いながら食事のしたくをするのです。先日も証券会社から金沢の金箔入のお酒と酒器が届き、金沢の町をあちこち歩きながら楽しんだ事を思い出したりしていました。そんな細やかな事が幸せに感じられます。

函館で過ごした3ヶ月間は私にとってとても楽しい充実したものでした。父のベッドの傍で交わす話は驚くほどに新鮮な感覚を私に与えてくれます。私の場合特に父と一緒に暮らす時間がありませんでしたからこの時とばかりに色々な事を聞き出しては私の知らない話を補うのです。これがもし事故や急病で倒れたり亡くなったりして会話も出来なかったとしたらどうでしょう。家族としての喪失感は計り知れないものがあるのではないでしょうか。その点、病床にいるとは言え記憶がしっかりしていて会話にも不自由のない父にはまるで私の為に最後の命を保っているのではないかと思うほどで、とても感謝するのです。ですからせめてもの事と思い、美味しいものを作ったりカステラを買ったりして病床に運ぶのですが、私に出来ることはそのくらいです。しかしそんな私に父は帰りがけ必ず「有難う」と言い「気をつけて」と気遣うのです。

『ALWAYS 続・三丁目の夕日』では鈴木オートの奥さんが子どもたちと出かけた先で偶然戦前お付き合いのあった男性と出会います。男性はシベリアに抑留されていたのですが、二人は戦争が運命を変えたことを受け入れて静かです。
私の父もシベリアに抑留されていました。4年を経て昭和24年7月31日に復員船興安丸で舞鶴に帰ってきます。子供の頃父は戦争の話やシベリアの話を一切しませんでした。私達家族もそこに触れることはしません。しかし父がそれらの思いを封じていたのかというとそうではありませんでした。ある時平成になってからの事ですが、父が満州で一緒だった人の家族が開拓農家として北海道にいらして、私の運転する車でその家を訪ねた事があります。父が一人のたまたま満州で出会った人の為にそのご家族に会いに行くという強い気持ちを持っていたことを私はその時初めて知ったのです。老いたその家のご婦人は一枚の白黒写真をテーブルに出し消息を訊ねます。そのご婦人もまた父と同じように重い記憶を抱いて生きているのでしょう。
私にとって父が戦争に行き、シベリアに抑留されていたというのは大変大きな事です。もし私に同じ事が起こっていたらと想像すると恐怖に気がおかしくなるのではと思うくらいで、そのような経験をした父が目の前にいるという事は私とは全く次元の違う存在として父を考えなければなりません。何の罪もないのに他国によって拘束され自由を奪われ過酷な労働を強いられる、そして次々と仲間が亡くなってゆく。父の経験してきた事を思えば、私が経験する事の全てがあまりにも普通で小さな事のように感じられます。私がこれまで何度も父の命を思うことで自分の生きる勇気を絞りだして来たのはそうゆう分けなのです。

私達人間も蝉や雀と同じように鳴き続けなければなりません。生まれてきた瞬間から泣き出し一生泣き続けて生をつないでゆきます。この世の何を見て泣いているのか。私はそれを何時も思っています。そして私の見たものの一つに父があったことをとても意味深く感謝しながら思うのです。

『ALWAYS 三丁目の夕日』

お元気ですか?

暑い夏が続きます。水分をとって体調管理はしているつもりですが、昨夜は沢山の汗をかき目が覚めたほどでした。夜寝ているうちに熱中症になるようですから睡眠中の体温にも気をつけなければいけません。皆様もどうぞお気をつけください。

今朝、NHKのニュースで遠州流茶道が世界最古のドイツのぬいぐるみメーカー、シュタイフ社とコラボして茶道テディベアを作ったとの話題を紹介していました。小堀遠州を祖とする茶道の家元がどのような経緯でテディベアと協力するようになったのかは分かりませんが、私はこうゆう試みに好意的なほうです。伝統とかブランドというのは守り大切にする一方で現代を深く理解し行く末をイメージ出来てこそだと思うからです。
どうです?着物姿のテディーベア。茶室の涼やかな空間が思い出されて私はなかなか良いんじゃないかと思います。

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(写真はお借りしました)


『ALWAYS 三丁目の夕日』『ALWAYS 続・三丁目の夕日』『ALWAYS 三丁目の夕日'64』を見ました。
昭和30年代をテーマにした東京の庶民の暮らしを描いた作品です。1作目は昭和33年東京タワーの建設が進む下町(といっても愛宕町らしいです)が舞台。集団就職で上京した六子は自動車の修理工場鈴木オートに就職します。その向かいには小説家茶川龍之介が駄菓子屋をやりながら暮らしていますが、茶川は居酒屋の女将から見知らぬ子供古行淳之介を預かり・・・。

正直なことを白状しますとこの時代は私の子供時代そのままです。東京と函館という違いはありますが、そのままと言っていいでしょう。そのため、ちょっと気恥ずかしい感じもあって見るのをためらっていました。テレビが家庭に普及し、冷蔵庫、洗濯機と家電製品が普及し始めます。私の家には車はありませんでしたが、友達の家にはスバル360が届いたのを見に行きました。
『ALWAYS 三丁目の夕日』というのは漫画が原作だそうですが、昭和30年代という時代をテーマにした映画を見る時、何を見るのだろうという思いがまず浮かびます。当時の車や家電製品、氷を入れて使う冷蔵庫を見て、そうそうこうゆのだったと記憶と照らしあわせて懐かしむだけならあまり関心しません。自分の記憶で充分です。それが映画を見る前の躊躇させる気持ちになっていたのです。

2作目『ALWAYS 続・三丁目の夕日』は1作目の翌年、昭和34年が舞台です。オープニングからいきなりゴジラが登場し、東京タワーを破壊しますが、これは監督さんのオマージュでしょう。先の記事でゴジラに関心の無いことを表明した私としては申し訳ない次第ですが、時代の雰囲気を表現するにはいい感じです。話もより人の姿に迫ったものになっています。鈴木オートの主人鈴木則文は戦友会に出かけ、妻トモエは子供たちと外出した先で戦争で別れた男性と再会します。町医者の宅間は東京大空襲で亡くした妻と娘を思い出すなど“もはや戦後ではない”と言われる経済成長の中人々が忘れることの出来ないものを抱えて生きていることを描いています。

3作目『ALWAYS 三丁目の夕日'64』は5年後、東京オリンピックの年です。集団就職で上京した六子は医師菊池孝太郎に恋心を抱くようになっています。鈴木オートの長男一平はエレキギターに夢中、親友の古行淳之介は東大受験を目指していますが密かに小説家への夢を持っています。オリンピック、新幹線、高速道路といった日本の社会の大きな変化はそれ以前の戦後復興の延長線にあった時代と確かに一線を画しています。SF作家となった茶川龍之介が淳之介の東大に進むことを強く望んでいるのは、実父(らしい)川渕康成への見返す気持ちもあるのでしょうが、高学歴を目指す社会を映しているようでもあります。紆余曲折を経て菊池と結婚する六子が新婚旅行で新幹線に乗るのは、集団就職の時に蒸気機関車で上京したのと比べると信じがたい話ですが、それほどに時代の変化が早かったということです。

さて、映画はVFXを用いて見事に昭和30年代を再現しています。自動車や洗濯機、テレビといった小道具も大いに役立っていますが、実際の30年代と記憶の30年代とをうまく組み合わせながらリアリティーを出しているように思います。その点では映像として映画を楽しめました。ただ、内容はどうなのでしょう。懐かしさだけなら私は関心しません。同時に現代と比べ失われた何かをというのも同じように関心しません。幸いこの『ALWAYS 三丁目の夕日』3作品はそんな事を言っているようでもなさそうで普通に人のドラマを描くことが出来ているようです。

私達には幸福を求める権利があると同時に義務も負っています。科学・医療技術の進歩、経済システムの整備、文化芸術の開拓と様々な分野で私達は進歩をしてきました。しかし、私は政治の分野はその他に比べるとその進歩の度合いが極端に遅れていると思わざるを得ません。人間は未だに自国の利益の為に他人の国を侵略し戦争をします。こんな小さな地球に住んでいるというのに自分の事ばかり声高に言って恥を知らないようです。
昭和30年代、戦争の悲しさを背負いながらも一生懸命に生きていた時、私達は何を幸福だと思っていたのでしょうか。『ALWAYS 三丁目の夕日』を見ながら、身の丈にあった幸福、人を傷つけない、人と争わないで済む幸福の求め方は無いものかと思います。懐かしさではなく、今の私達が必要とする何かを『ALWAYS 三丁目の夕日』で考えることは出来るのか、そんなことを思います。

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ゴジラの夏

お元気ですか?

今朝、NHKのニュースを見ていたらゴジラの話をしていました。最初に作られたゴジラの映画は1954年ですから私が生まれる前の作品なのですが、子供の頃は怪獣映画が盛んだった記憶がありますし、近所に住む従兄弟はゴジラの人形を持っていました。しかし私はゴジラの映画をこれまで見たことがありません。怪獣ものの映画はかろうじて「大怪獣ガメラ」を見て亀が好きになったくらい。男の子は怪獣好きか乗り物好きに分けることが出来るという話を聞いた事がありますが、それで言うと私は乗り物だったのでしょう。確かに汽車旅は好きですし大きな消防車と信号待ちで並ぶと思わず眺めてしまいます。ついでに言うと、仮面ライダーに代表される変身ものも全く興味がないままでした。可愛げのない子供だったのでしょうか?

という記憶が自分の中でひっかかっていましたので、NHKのBS放送でゴジラを特集するのを幸いに見てみることにします。

「ゴジラ(1954年/日本)」はなるほど原子力への恐れ、科学技術への警戒を色濃く感じさせます。
「ゴジラ(1984年/日本)」は内容よりも若い沢口靖子が出演しているので満足。デビュー第二作目です。
「モスラ対ゴジラ(1964年/日本)」はザ・ピーナッツが歌っているのでちゃんと見ておこうと思ったのですが、星由里子さんが若い!っとこれまた脱線してしまいました。

と三作品を見たのですが、もうこれで充分です。放送はこの後も宇宙怪獣が出てきたりメカゴジラが出てきたりと盛り沢山なようですが、やはり私は怪獣ものに関心が向かないという事がはっきり分かりました。

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でも、映画を見ていてゴジラが放射能を吸収してしまうという設定はあぁこれはいいなと思います。日本中の原子炉の廃炉処理をゴジラに手伝ってもらえたならなんていいのでしょう。ゴジラ様こちらへどうぞ・・・なんて。
そんな人間の勝手な思いを超えたところにゴジラの存在の良さがあるのでしょが。

ではまた。


ラ・サリーブ  夏のお料理

お元気ですか?

3ヶ月も当地を留守にしていたので、美味しい物を食べて気持ちを整えたいと思いました。私達にとってレストランは食べることを通じて自分らしさを取り戻す家のようなところです。シェフの料理を真摯に受け止めると同時に自分の感性で厳しく対峙し自分自身の姿を見直すところでもあります。

ということで、いつも馴染みにさせていただいている当地でも最高のレストラン、ラ・サリーブさんにおじゃましました。
久しぶりにお会いしたマダムやシェフと近況の御挨拶をしながらワインはお薦めのもの、さぁお任せの料理が始まります。

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テーブルのセットも可愛いでしょう。

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アミューズはマンゴーが乗って軽く始まります。パンもふっくらと美味しい。

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鴨をあしらったサラダは野菜の新鮮な美味しさに楽しくなるくらいです。イタリア北部の白ワインはどんどん進みます。

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お魚料理はハタが登場。シェフのこだわりが見えるお皿ですね。

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白ワインが無くなったので、おかわりをお願いしたら'94のバローロを出してくださいました。差し障りがあるといけませんので詳しくは書けませんが、とある機関のとある深い深い場所で保管されていたバローロだそうで、ラベルもすっかり剥がれ落ちています。ゆっくりと熟成した感じがとてもまろやかで、まだまだ力強さが残っていますが素直な飲みやすい状態に仕上がっていました。マダム、ごちそうさまでした。

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お口直しのシャーベットをいただき、お肉も夏らしくさっぱりしたソースでいただきます。

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チーズをいただき、デザートをいただいてお仕舞い。

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珈琲を飲みながらシェフと少しお話をします。私の希望は当地を食の街として全国的にアピールすること。野菜や畜産など本当に美味しい物が沢山ありますし生産者さんも頑張っています。もちろんラ・サリーブさんのように素晴らしい料理を作ってくださるシェフもいらっしゃるので、あとはその素晴らしさをどう伝えてゆくかなのですが、これがなかなか難しいのです。

久しぶりのラ・サリーブさんのお料理にすっかりご機嫌になった私は色々おしゃべりしてちょっと反省もします。
でも、ラ・サリーブさんの応援は全力でしたいと改めて思ったお食事でした。

えぇい!われこそと思う人はラ・サリーブの料理をまずは召し上がってみてください。料理の心とは何かが分かること私が請け合います。



老いの傍で・・・その2

お元気ですか?

台風が通り過ぎ、当地には少し雨が残りむした日が続いています。函館にも雨雲がかかった天気図でしたので電話をするとあまり雨は降らなかったようです。

今回母の骨折を知らせてくれたのは叔母でした。函館には母の兄弟が住んでいて交流があります。離れて暮らす子供として、このことは安心出来る事の一つです。入院の手続きや身の回りの支度などもしてくれていましたから私が翌々日に病室に行った時には基本的なことは不自由ない状態でした。では親戚など母が身の回りの事を頼めるような親しい人がいない場合にはどうなるのでしょうか。今回は母の意識が確りしていたから良かったものの、意識がなかったら離れた家族にどう連絡がとられるのでしょう。
叔母からの連絡を受けて私から病院に電話を入れた時、子供であることを伝えても病院は私に母が入院していることを教えてはくれませんでした。個人情報の保護なのでしょうが私と病院との間には壁がありました。ところが、函館について病室に行く前ナースステーションに寄ると、名前を言っただけで私の本人確認もしないのに、同意書などにサインを求めてきます。離れて暮らす家族に必要な連絡は拒否され、病院に入れば本人で無くても(もちろん私は本人でしたが)書類にサインが出来てしまうという重大な手続きの不備があるのです。
私は病院を責めるためにこの事実を問題と言っているのではありません。誰が入院しているか、その留守宅はどうなっているかなど犯罪につながる情報がそこには有るからこその対応なのでしょうが、視点を変えれば問題があるという事を言いたいのです。

母は幸い、怪我した体を引きずって救急車に電話をしベランダの鍵を開けてそこから入ってもらうように伝えました。救急隊の人はベランダから入り玄関を開けましたが、母を搬送すると火の確認や施錠の確認をし、母が伝えた兄弟の家に電話をして病院に向かいました。緊急連絡先は離れている子供より近い所に住む身内や個人的な事情も分かる親しい人が必要だということです。ではそうゆう人がいない一人暮らしの老人はどうしたらいいのでしょうか。

私はパートナーさんと二人暮らしです。子供はいませんし、私達が老齢になる頃には親しい親戚の付き合いも無くなることでしょう。となると私達は緊急時には全て公的または有料のシステムに頼らなければならないということになります。同じような状況に置かれる人は全国に多くいらっしゃるでしょう。隣近所が親戚で暮らしているような村社会、家族が世代をつないで暮らしているような家なら違うでしょうが、少子化と都市部への人口集中といった社会の流れの中では益々一人暮らし老人は増えて行きます。その時その老人の命を守るのは社会のシステムなのです。ところが地方行政は少子化と人口減少のせいで財政難に陥り残された老人を守る事が困難になっています。

今回私は病院に通いましたし家の留守居をして必要な事をしてきました。銀行の通帳を預かり必要な支払いをしたり日々届いていたヤクルトや牛乳を止めたりもしましたが、それは子供として裁量権を移譲されたから出来た事です。家族がいなかったり、信頼出来る親戚や友人がいない場合金銭に絡む事やプライバシーに深く関わる作業を誰に頼めばいいのかという問題があります。弁護士と契約出来る人は少ないでしょう。後見人制度を使いやすくする必要があるでしょうが、プライバシーの管理や地域社会の理解など基盤作りが必要と考えます。

私の場合、父が新潟の実家を離れて暮らし北海道で家族を持ちましたが故郷の事両親の思い出などを良く話してくれましたし、母の実家は函館にあり行き来していました。そうゆう環境は私に家と自分の出自を強く意識させました。両親はそれぞれ自分の世界を持っていましたから私も自分の好きなことをしていましたが、離れて暮らしていても家族という気持ちは存在の根底に強く持てるように成長しました。私はこれをセパレートなファミリーと言っています。
これは私の生活の作り方にも関係し、若い頃は勤め仕事をしていましたが時間が自由になる自営に替え生涯現役を目指しています。勤め仕事をしていたらとても3か月も会社を休む事は出来ませんからこの選択は正しかったと思っています。しかし、これは誰にでも出来る事ではありません。
家族を思う気持ちは大事ですが親も子供もそれぞれの生活があります。家族は身近で安心できる存在かもしれませんが、組織としては一番小さく非力なものです。その非力なものに頼らないで済むシステムを考えなければならないと思うのです。

老いは誰にでも訪れますがその形は様々です。家族が傍にいる人、離れて暮らす人、仕事で時間が自由にならない人、経済的問題・・・。
人は社会の財産です。人は個人として成長し生活を営みますが、仕事をしたり様々な社会参加をすることで社会に貢献していきます。その人が老いを迎え死に至る時、社会がサポートを出来ないようでは情けない話ではないでしょうか。人の死を見守るのは家族と同時に社会の責務であると強く思います。

函館に3か月暮らし、目に映る風景を記憶にある産業と人々の賑にあふれていた函館と対比しながら急加速で函館が崩壊しようとしているのを感じてきました。その函館に取り残されているのは老人たちです。老人を診るため病院はありますが、そこで働く人達が生活を楽しめる場所はありません。そうした歪はいずれ医療の現場にも悪い形で現れてきます。
私達は安心して老いを迎え死に至ることが出来るように、社会のモデルを考えなければならないと思うのです。

老いの傍で・・・その1

お元気ですか?

3ヵ月にわたる函館生活を終え、日曜日に帰ってきました。
翌月曜日には母の快気祝いを手配したり、訪問介護センターへメールをしたりと離れていても函館の事に気を使わなければなりません。両親とも私の自由をこれまで許してきてくれましたが、現実は介護入院をしている父と自分自身老いてヘルパーを必要としながら父の病院に通う母の姿に接して、今まで以上に私達の向かうべき行動を厳しく早く考えなければなりません。如何にのんびり屋の私でももう時間が少ないのです。

少し個人的な事になりますが、今回の整理の意味で気がつく処、わからない事を書いておきましょう。

父の介護入院費(言葉が適当ではないかもしれませんが)は介護保険が適用され自己負担月額11万ほどです。これにはレンタルのパジャマ代や食事代が含まれます。両親の場合幸い父の年金などで賄う事が出来ていますが、人によっては決して少ない金額ではありません。また母が病院に父を見舞う時に電車やタクシーを使います。函館では高齢者の市電・市バスの利用には割引乗車券の購入が出来ますが、それも限度額があります。足の悪い母は市電やバスののりばに行くのも不自由なことがあるので、病院への片道2500円ほどのタクシーを使う事もあります。こうした交通費はけっこうな金額になります。私が市電を使って病院にかよっていたケースでは往復で500円、途中買い物などで乗り降りをすれば更に増えますから最低でも月に6000円から10000円弱の交通費が必要です。

函館では基幹病院が連携をして医療にあたるシステムをとっています。母の怪我の手術は市立函館病院でしたが、リハビリは別の病院です。患者のデータは本人家族の了解のもと病院どうし共有します。リハビリ病院にも手術を執刀した医者が毎週経過観察にきていました。また普段母が通院していた国立病院からも喘息などの治療記録が渡され薬の処方などが継続されていました。これはとても安心の出来るシステムです。

父に関しては、病気入院→回復リハビリ病棟→末期介護病棟と進んできました。もちろん回復リハビリ病棟から退院という形が望ましいのですが、父にはそれはかないませんでした。この末期介護病棟はこの病院独特の極めてサービス色の強い病棟です。介護保険で対応していて現状維持が精一杯という患者さんばかり。病気が重篤になって深い医療を受けるためには退院し別の病院に移らなければなりません。またそののち特老などの介護施設に移る場合は改めて探さなければなりません。つまり家族にとって一番都合が良いことはこの介護病棟で最後を迎えることが出来る事なのですが、終末時の病状は誰にも予測がつきませんから、転院などの準備も考えておく必要はあります。

次に、私達のように離れた処から親の住む場所に通うことを見てみましょう。今回私の函館への往復の飛行機代は約60000円ほど、それに飛行場までの電車バスの交通費が往復5500円ほどです。8月にパートナーさんと函館に行く飛行機とホテルを今日予約しましたが、4泊5日で2人で11万円。これに食事代が一日1万と考えて5万円。パートナーさんは職場の休みを函館行きに当てると言ってくれていてこれはとても嬉しい事なのですが、年間5回帰るとなると80万ほどかかることになります。

お金の事をまず書きましたが、現実の問題として無視出来ないからです。これに父が亡くなれば勤めた経験の無い母が受け取れる年金は大きく減ります。父と同じように介護保険で療養する事を考えると相応の金銭的余裕が必要となるでしょう。今回は具体的な話まではしてきませんでしたが、母には計画があるようで安心でした。

次回は家族の話をいたします。

ではまた。




父の帰宅

お元気ですか?

函館での私の役目も大方終わりつつあります。
母の退院とともに、父にも退院したいという思いが膨らみますが、実情は退院出来る体力はありません。そこで外出許可をもらい家に連れ帰ってみることにしました。婦長さんに話、医者の許可を得ます。外出日を日曜日の午後と決めました。
車椅子のまま乗せることの出来るレンタカーを探しましたが、生憎貸出中というので屋根の高い車を借りて乗り降りは私が背負って行うことにします。
当日、昨日退院したばかりの母と一緒に病院に向かい、父の病室に入ると、父はこれから帰ることが出来るという喜びで気合が入っています。どうしても着たいというシャツと背広に着替え車椅子に移して病室を出るとナースステーションから皆さん出てきてくださって「良かったね」とか「おしゃれだね」などと父に声をかけてくれます。なるほど、背広を着た父は少しシャキッとして見えますし私達の目にも馴染んでいますからベッドの上のパジャマ姿とは明らかに違い父らしく映ります。
看護師さんから外出許可証をもらい、見送りを受けてエレベーターに乗ります。
病院から家までは20分ほどの距離ですが、「会社の前を通って行く?」と訊くと、父も賛成してくれましたので少し遠回りですが、長年勤めた会社の建物の前を通ってから家に向かいます。

家につくと親戚に電話をしたいと父。車椅子に乗ったまま電話機の傍まで行き、母がダイヤルを回して先方が出たところで父に替わります。病院のベッドで話したいことを用意していたのでしょう。大きな声でしっかりと話をしています。

その間、私は近くのスーパーに父のリクエストであったお刺身やちらし寿司を買いに出かけ、急ぎ買い物を済ませすぐ家に戻り、食事の用意です。これも父の要望の鯛の潮汁を作り、お刺身とちらし寿司を食べやすくし、母が介助しながら食事が始まります。これまでも「何か美味しい物が食べたい」という父に鮭を焼いたり玉子焼きを持って行ったりとしてきましたが、病院には生物は持ち込めません。久しぶりのお刺身に父の食も進みます。母はスプーンを使って口に運んでいましたが、終いには自分で箸を持ちお刺身を食べています。これには私達の方が大喜びです。箸を使う父を久しぶりに見ました。
食事を終えると果物が食べたいと言います。用意はしてなかったのですが、パインの缶詰があったので一口で食べられるように小さく切り、ガラスの器で出すと父はこれも完食です。食べることの大好きな父らしい食事です。

食事を済ませ、ソファーで横になっていると時計は4時半です。庭の花木も見られました。父の気持ちも落ち着いたようです。そろそろ病院に戻らなければなりません。玄関までは車椅子で、そこから車までは私が背負って運びます。来た時よりは少し上手になったようです。

病院に戻り、担当看護師さんに外出許可証の半券を戻しながら状態の報告と食事内容の報告をします。4時間の帰宅でしたが、排泄は事前に病院で対応してくださっていたので私達が関係することはありませんでした。ベッドに戻る前には背広の着替えも看護師さんが手伝ってくださり、さりげないサポートが心に届きます。

体調良くこの日を待ってくれた父、自分のやりたい事をはっきりと伝えてくれた父のお陰で充実した外出が完了しました。父も私達も大満足の外出でした。

翌日の月曜日、病院では父の入浴日なので使用したタオルや下着をとりに行きます。エレベーターを降りたところで婦長さんに会いましたので外出が無事に済んだ事のお礼を伝えると、「お父さんとってもいい顔ですよ。」と喜んでくださいます。
父のリハビリをしてくださる、若い療法士さんも「お父さん家に帰ったって喜んでいましたよ」と声をかけてくれます。
病室の父は非常に満足気で落ち着いた様子です。私が持ってきた紅茶を飲みながら、「病院でも6時に夕御飯が出たのでそれも食べたよ」と言います。よほど家に帰ったことで機嫌が良かったのでしょう。
私に「お世話になりました。着られる背広はみんな持って行っていいよ」なんて言ったりもします。

帰り間際、「今度函館に来られるのは8月だけど、その時も家に帰られるように元気でいてね。」と私が言うと父は「次は退院だ。」という返事。どこまで本気なのか判って言っているのかははっきりしませんが、元気になれば家に帰られるという希望を父が持っていることは確かです。去年の10月、いよいよ危ないからと医者に呼ばれて函館に来た時の父の様子からは想像も出来ないくらいの回復なのです。父の生きる力に感謝して今回の函館の帰省を終えることができます。

今日はこれから、母の生活のサポートをお願いする訪問介護の人が来ます。老いた母には自分の生活のリズムがありますし、流儀もあります。それを理解していただいた上でどのようなサポートをしていただけるのか、打ち合わせをしなければいけません。まぁ、なるようになるしかないですね。

ではまた。

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