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杣人・somabito

Author:杣人・somabito
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『ピスタチオ』

お元気ですか?

梨木香歩さんの『ピスタチオ』を読みました。先に読んだ2冊は紀行文、随筆でしたが今回は小説です。「ちくま」に書かれたこの小説は2008年から2010年、先の2冊と同時期の作品ですから、作者の関心が向いている方向は同じです。それをどう物語という形で表現するのかに興味が湧きます。

物語は主人公の女性と飼い犬のマースの話から始まります。散歩コースにある池の鳥、野生の顔を見せる猫を織り込みながら野生動物とペットの人間との距離に触れます。「どこで何をまちがえたのか。野生に触れていたくてマースを飼った、それが棚(主人公の名前)自身の行き方にも繋がる「ペットを飼う」ことの大義名分だった。犬猫をまるで子どもの代用のように扱う、そうゆうカテゴリーの人種に、棚は自分を入れたくなかったのだ。」と言います。しかしマースが病気に罹り手術をすることになったことCTを撮りオムツを買ったりすることで棚は自分の位置が揺れ葛藤を覚えます。
物語の導入で語られるマースと棚の関係性を読みながら、私は居心地の悪さを感じていました。実は私は生き物、特にペットという存在が苦手です。それは犬に噛まれたとかゴキブリに襲われたといった理由からではなく、人間の個体とはまるで違う姿がどうにも不気味に感じられ、そう思い始めると異界の生き物のように思えるからなのです。

棚はライターの仕事でアフリカへ向かいます。それは観光目的の土地やホテルなどを紹介する記事のための仕事ですが、同時に亡くなった知人の足跡を訪ねる旅でもあり、何かに手を引かれるようにしてアフリカへ向かうのです。
ここから梨木さんの描く世界は一気に境界を越え彼方での物語になってゆきます。『沼地のある森を抜けて』でファンタジックに描かれたものが、ここではアフリカという土地と呪術医を訪ねるという生命の力強さを伴ったリアリティで読者に示されます。そのリアリティは彼方でのもので、棚はジンナジュという霊によって予定されていたように人と会い、ステップを踏んでいきます。なぜ棚はアフリカに来なければならなかったのか。何をする役割を担っていたのか。物語は次第に大きな世界を語りだします。

呪術医のところにくる患者はダバと呼ばれる病もしくは禍の元のようなものを抱えています。ダバは物語のはじめ、マースが患った「瘤」と重なり、生命として必要のないけれども自然にたまってしまった「瘤」は医者や呪術医によって取り除かれます。地球もまた人間と同じようにダバを溜めてゆきますが洪水によって洗い流されます。そして新しい大地でそれまで育つことのなかった新しい生命ピスタチオを育むのです。
ここで、最近の大雨災害や世界各地で報告されている洪水を想像するのは自然なことのように感じます。人間がこれまで文明として利用した土地は、砂漠化が進み緑が失われてしまいました。洪水によって洗い流され新しい土が運ばれてくるのは自然再生のメカニズムなのかも知れません。
人間は自然との共生を言いながら自分たちに都合のいいことを折り込みます。毒という言葉はそれを端的に表していて、生物が本来持っているものを人間に害するというこちらからの理屈で毒と言ってしまいます。温暖化による気候や海流の変化もこれまでのそれもごく短い人間の時間のなかで都合が悪くなったから言っているだけです。種の保存についても人間はこの世界にある全ての生き物を知っているわけではないのに、絶滅しようとする生物に対してまるで人間がその責任を負っているかのように守ろうとします。大きな流れの中でそれは守りきれるものではないでしょうし、一時的に守ろうとうしたことで生態系の他のところに歪が出てくることもあります。
テロや戦争で人間が死ぬことまでも自然の中のことだと言うつもりはありませんが、人間が地球の温暖化を招き環境破壊を進めその結果気候の変動をもたらし・・・というならそれも自然淘汰の流れのうちなのかもしれません。たとえ全ての人類が洪水の下で亡くなったとしても新しい生命が生まれるならそれを自然と受け入れることも一つの考え方です。

『ピスタチオ』はアフリカを舞台に呪術医や精霊の存在、ダバと呼ばれる「瘤」や洪水による浄化再生が語られますのでスピリチュアルな感じを受けます。しかし、梨木さんはプロテクションという言葉を使いスピリチュアルなものと一定の距離を保っています。呪術医が儀式を執り行い精霊に依頼人をプロテクトしてもらうという言い方も話の中に出てきますが、梨木さんはもう少し膨らませて彼方との距離を保つのにもプロテクションという言葉を考えているようです。棚が不思議なめぐり合わせを感じたときに「冗談にしてしまった方がよくありませんか。このコンテクストに呑み込まれるより」と言ったり、「頭のどこかで、名乗ったらおしまいだ、もう逃げられない」と思ったりします。これはとても大切なことで、私もいつも気をつけている事です。確かに私たちの周りには霊性を感じたり何かの意思・方向を感じることがままあります。しかし自分が誰でどこに立っているのかを弁えておかないと思いもよらないものに取り込まれてしまうこともあるのです。ただしこれを知るのも難しことなのですが。

梨木さんは物語の最後に、「「起こった事態を掬い取れるくくり」とはどういうものなのか。」とストレートな問を出し、すぐ「死者の「物語」こそがそれなのだろう、と思う。」と示します。「物語が真実なのだ。死者の納得できる物語こそが、きっと。」と。死者の納得する物語ということは、語るのは周りにいた人たちです。そしてその物語を残された者たちで語るのと同時に死者に伝えなければなりません。
棚は「死んでから始まる「何か」がある気がする。別の次元の「つきあい」が始まる」と言います。

物語が語られることによって新しい生命が生まれるのでしょう。


ピスタチオピスタチオ
(2010/10)
梨木 香歩

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おまけ)
久しぶりに梨木香歩さんの小説を読みました。テーマの大きさ、物語性、言葉に含まれた意味の深さなど十分に楽しむことが出来ます。先に読んだ2冊から「渡り」の事を頭の隅に置いていましたが、そこにこだわる事はないのかも知れません。しかし、境界を超えて物語が語られることはある意味での「渡り」なのかとも思います。
洪水によって世界が流されたとき、物語を語ってくれるのは誰なのでしょう。その物語はどのようなものなのでしょう。読み終わったあともイメージはいくつも出てきます。何回でも読み返してみたくなる『ピスタチオ』でした。

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『渡りの足跡』

お元気ですか?

秋分の日、当地は暖かな日差しの穏やかな日を迎えました。パートナーさんは「今日はお萩を作るね」と言って律儀に台所に立っています。

梨木香歩さんの『渡りの足跡』を読みました。先日読んだ『エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦』にコウノトリを見たいと希望していたのに、エストニアに着いた翌日に気候の大きな変化が訪れコウノトリが一斉にエストニアからアフリカに向けて飛び立って行ったことが書かれていました。梨木さんのこれまでの作品に境界とか変容といったキーワードを見つけて読んでいた私は梨木さんがコウノトリの渡りに感心を持ったことに興味を覚え、どうゆう理由が彼女の中にあったのかを知りたいと思い『渡りの足跡』を読み始めたのでした。

「雪と針葉樹に囲まれた北欧の海の入り江のような、屈斜路湖を、上から覗き込むようにして飛行機が斜めに降下を始め、やがて気がつけばすぐ下が女満別空港の滑走路だった。」と始まる冒頭は、『エストニア紀行』のラストでタリンを離陸した飛行機の窓から自分の旅した街や道路を確認してコウノトリの目と重ねあわせるのと呼応し、期待を抱えながら飛行場に降りる梨木さんが鳥目線となって読者を引き込みます。しかもそこは私も見知った風景であり、さらに知床半島に向かう道を車で走る梨木さんの目に映るものは私の記憶にあるのと同じ風景です。『エストニア紀行』とは違う気持ちの昂ぶりを感じながら読み始めます。

読み始めてすぐ、梨木さんは二つのテーマを示しています。カッコ書きのなかに(「案内人」という言葉を私はとても重要に思うので、ここではそう呼ばせていただくことにする)と示したそれは本書全体を通じて注意を払うべきテーマです。『エストニア紀行』でも、「案内人という個性のフィルター」がどうゆうものであるか知りたい言っている梨木さんです。「案内人」という日本語に単なるガイド以上の働きを見ているのでしょう。そのことは本書の中で後にデルスー・ウザラーに言及することでよりはっきりします。
もう一つは「旅立つ、ということを、長くても短くてもある程度住み慣れた場所を離れる、ということを、決意するときのエネルギーはどこから湧き起こってくるのだろう。」という明確な興味。衛星による渡り鳥の移動経路の調査を紹介し、「思えば近所の池や川に飛来するカモたちにも、一羽一羽、このような物語があり、命がけで旅を終え、奇跡的に辿り着いているのだ。」とエネルギーは物語の原動力であること、その物語に梨木さんが惹かれているのが分かります。

私の原風景の一つに母の家の窓から函館湾を眺めている自分の姿があります。函館山の中腹に建てられた家の二階の窓は出窓になっていてそこに肘をついたり、すっかり腰掛けたりして海を飽きずに見ていたのです。湾を行き来する船は北洋に行って漁をする漁船であったり津軽海峡を渡り物資を輸送する船であったりしますから、子供の私には風景はそのまま北海道の外、それも本州ではなく海外につながっていました。外国語を勉強する喜びや旅に出てふらりと街を歩く楽しみはこの原風景に拠っていると言っていいでしょう。同時に、私のなかにある「此処の人ではない」という気持ちもこの原風景によって育てられます。父が新潟から北海道に渡って来たように、私は何処に行くのだろうという思いは生まれ育った街であるにも関わらず函館に帰属する意識を生むことはありませんでした。何処か私が住むべき場所を探す気持ちは、「此処の人ではない」という乾きを抱えながら私の心の底に染み込んでいったのです。

本の話に戻りましょう。梨木さんはベーリング海をシーカヤックで渡った経験をもつ新谷暁生さんを紹介し(本当に残念なことに彼の本は当地の図書館に無い)アリュート人の姿に触れます。ベーリング海が海流のせいで意外に暖かく、海で暮らす彼らがシーカヤックによって文化を発展させていった事を紹介しながら、「アメリカとロシアに蹂躙され、その文化は壊滅的打撃を受けた。」「十九世紀末ロシア人達に連れてこられたアリュート人は、従来の自分たちの見知ったコースを大きく外れて千島列島のシムシル島周辺の海でラッコ猟をさせられていた。その海の水は、故郷の海とは全く違う冷たさのものだったろう。ことのきのアリュート・カヤック、それからその特徴的なパドルが、函館市北方民族資料館に展示されている。」と書きます。ああそうだった。私たちが函館の資料館で見て力強さに圧倒されたあのカヤックはそうゆう歴史を持っているんだと改めて思い出します。美しい民族衣装、繊細な装身具と同様アリュート人のどこからか来て住み着いた人たちの力強さです。

梨木さんの「渡り」はアリュート人に留まらず太平洋戦争の最中、アメリカに住む日系人たちが強制収容所に収監され、他のドイツ人やイタリア人と比べても不当に差別的扱いを受けた歴史にも触れます。彼らは二世三世というアメリカで生まれアメリカ人として市民権を持っていた人たちでした。そのため、自由と民主主義、平等を国民として信じていたにも関わらずアメリカという国がそれを自ら誤ったことに深い失望を感じます。そのためアメリカ政府に対して訴訟を起こしたりもします。また日本に送還される人も出ます。最近ではアメリカのテレビドラマなどでも日系人の強制収容の問題は題材にされていますので私が細かく書くところではありません。人間は自らの意思とは別のところで「渡り」をしなければならない場面に置かれるということがポイントで、梨木さんはこの章を「生きることは時空の移動であり、それは変容を意味する。それが「渡り」の本質なのだろう。ノーノーボーイたちも、オオワシも、私も。生きものはみな、それを生き抜かなければならない。その道行が、ときにどんなに不器用で、本人自身、当惑するような姿をして現れてこようと。」と結びます。
この「渡り」が「変容」であるというのは重要なテーマです。単に暖かいところで過ごし子作りをするために南の土地に渡ってくるというだけではないのです。

私は『渡りの足跡』に二つのテーマを見ました。一つは「渡り」のエネルギーは物語の原動力であり、その物語に興味をおぼえるということでした。もう一つは「案内人」です。梨木さんは「案内するもの」という章でウラジオストックへの旅を紹介し「案内人」のことを書きます。カーチャという函館の極東大学分校に留学した経験をもつまだ若い通訳と一緒にアルセニエフ博物館を訪ねます。アルセニエフはロシアの探検家ですが、私は彼の案内人デルスー・ウザラーを黒澤明監督の映画で記憶しています。アルセニエフは過酷な自然のなかで「この男と一緒なら死ぬことはない。」と絶対的な信頼をデルスー・ウザラーに寄せます。ここに帝政ロシアから来た探検家の「変容」を見ることができます。しかし「変容」は人間のもっと深いところで起きることをロシアの自然は教えてくれます。それはアルセニエフが知人に送った手紙に書かれた一節です。アルセニエフは探検で四回餓死しかかり、21日間続いた最後の飢餓状態のときに愛犬を食べたというのです。『アルパや哀れ。お前は八年間も歩き続けるという生活を共にしてくれた。そして自分の死によって、私と仲間を救ってくれた』とアルセニエフは書きます。そして、梨木さんは「アリパもまた「案内人」の役を担っていたに違いない。(中略)「案内人」という客体であったものが、いつか「主体」に吸収される、象徴的な事例のように思えて、この個所を読んだ時はしばらく考え込んだものだった。」と。
「案内人という個性のフィルター」に興味をもつ梨木さんですが、そのフィルターは案内を受ける旅人(主体)に吸収されながら主体を変容させてゆく力を含んでいるのでしょう。その「案内人」との浸透性に反応し変化を受け入れることが出来るかは旅人の気づきでしょうが。

少し長いお話になりました。梨木さんは『渡りの足跡』を次のように終えています。
「生物は帰りたい場所へ渡る。自分に適した場所。自分を迎えてくれる場所。自分が根を下ろせるかもしれない場所。本来自分が属しているはずの場所。還っていける場所。たとえそこが今生では行ったはずのない場所であっても。」

私は家の窓から函館港を見て自分が向かうべき場所を思っていました。「渡り」の準備をしていたのでしょう。東京に出て様々な人や出来事に会い本を読み、これらは全て「案内人」だったのかも知れません。数年前当地に移ってきた時、東京を離れる寂しさを思いながらも、新しい土地に待つ何かを私は期待していました。決して都合の良い未来を思ったわけではありませんでしたし、実際そうもなりませんでした。しかし、私は生きて自分が向かうべき世界を模索しています。頑固な性格ですが「変容」もあったと思います。幸いなことに、もう少し物語を続けるエネルギーも持っているつもりです。まだまだ「渡り」は続いているのかも知れません。
何処かの干潟で皆さんに微笑んで会釈を交わせるかも知れません。


渡りの足跡渡りの足跡
(2010/04)
梨木 香歩

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国分寺を訪ねる

お元気ですか?

雨が心配された日曜日ですが、強い日差しの暖かい日になりました。

NHKのニュースで国分寺の史跡調査の公開説明が行われると知り、パートナーさんと2人で出かけました。特別な知識や経験はありませんが、史跡を訪ねるのは好きで、これまでも旅先で立ち寄ったり、住んでいた三鷹の発掘調査があると知ってお散歩がてら出かけたりと好奇心を満たしてきました。今回も隣町磐田の国分寺では木による基礎が行われていて全国的に珍しいとの報道だったので、これは見てみようと出かけたのですが、これがどうやら誤報でした。でも、そのおかげで貴重な説明を聴くことが出来たのですから結果満足ですが、最近の報道機関の取材力の低下には危惧を感じます。

国分寺は聖武天皇が天平13年(741)に国分寺建立の勅を発し全国で建築が始まりました。当地遠江では国府のあった現在の磐田で建てられるのですが、すぐに作られた訳ではなく、16年後には督促の命令が出ているくらいです。正確に何時完成したとは分かっていませんが、それでも全国の国分寺としては早く建てられた方で、技術者や資材の調達など苦労も多い事業ですが、天皇からの勅令ですから高さ66mと推定される七重塔など難しい建物も正直に作られたそうです。

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上の写真はその七重塔の中心の柱を建てた礎石(心礎)ですが、66mの塔というのは史跡の隣にあるNTTの建物の上に建つアンテナ塔よりも高いのだそうです。

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出土品も少し紹介されていますが、今回の説明のメインは土の中にあります。昭和26年に初めて行われた国分寺の調査ですが、昭和42~45年度には全国の国分寺跡の中で最初に史跡公園として整備が行われています。しかし研究の進歩により再調査の必要が生じたことなどもあり平成18年度から再整備に伴う発掘調査を行います。

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これにより、全国の古代寺院跡でも初めてと言われる「木装基壇」であることがわかりました。「木装基壇」というのは玉石を敷いた上に土を盛り固めその周りを厚い木の板で囲い土台とする工法です。基礎に水が滲み込まないようにすることで建物の木の腐食を防いだのですが、囲い板の方は何年かごとに交換が必要だったようで、どうしてこうゆう工法が取られたのかは分かっていません。塔の礎石は三河から運ばれていますし、良い石が採れなかったのでしょうか。

ところで、この木で土台を囲う工法をテレビの紹介では木を土台にすると伝え間違っていました。私はそれを聞いて珍しいと興味をもったのですから、何が幸いするかわかりません。

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さて、今回の調査で金堂や講堂のほか塔や僧房の基壇も「木装基壇」であることが分かりました。またその大きさも拡大し修正されています。その調査の助けとなっているのが火災です。平安時代の記録『類聚国史』には弘仁10年8月(819)に国分寺焼失の記載がありますが、この火事によって焼けた木材が炭化したため腐らず残り建造物の跡を示す証拠となっています。木の種類や切り方など建築の技術も分かるのです。
これまでの調査で塔や金堂、回廊で焼土や炭化物が見つかっていますが、再建された様子はありません。一方僧房や講堂は火災にあった痕が無く、平安時代半ばまで使われていたことが分かっています。

説明にあたってくれた研究者の方の話はとても分かりやすく想像を掻き立てるものです。建物が正確に作られている事に誇りを感じているようですし、一方、僧房から硯が出土しないのはあまり勉強熱心でなかったのかなといった話も混ざります。聞く私達の頭の中に当時の情景が浮かび史跡が活き活きとしてきます。
特別史跡である国分寺跡を再調査し整備し直していますが、復元した建物を建てるような事をしないのは、研究が進んでいるものの想像の粋を超えない部分が多く、正確さを確保できないからでもあるそうです。史跡の在り方として研究者の思いの伝わる話です。

予定を超える1時間以上の説明に満足を得て解散します。平成18年から始まった今回の調査は今年が最後で今日のような説明会も今後は無いとのことでしたから、とても幸運な時間をた楽しんだ事になります。
身近な所に歴史を知る貴重な資料があり、それを研究している人のいることを知りました。心地の良い日曜日です。

ではまた。





『エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦』

お元気ですか?

当地はすっかり秋めいて、朝夕は寒いほどです。
フィンランドの作家トーベ・ヤンソンのムーミンシリーズを読み終わりました。子供向けの童話と思っていましたが、物語は様々な障害や困難に満ちていてムーミン達登場人物の行動や心理をみても大人でも難しいことに向き合います。ひらがなの多い文章ですが時々立ちどまりながら読まないといけません。9冊の本は最初に書かれた『小さなトロールと大きな洪水』の1945年から最後の『ムーミン谷の十一月』 の1970年,まで25年をかけて書かれていますから一冊一冊読み込む重さがあるのですが、今回私は駆け足で読んでしまいました。それでも、ムーミンのお話が個の自由と尊厳が生命への慈しみと共に描かれているのを感じます。中学生や高校生がじっくり読んでも良いお話です。

何か良い本を読みたいと思い、梨木香歩さんの『エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦』を選びました。梨木さんは『西の魔女が死んだ』で知り何冊か文庫本で読んだお気に入りの作家です。それぞれの作品を読む中で「境界」「箱庭」などのキーワードを自分なりに見つけながら読んだのですが、今回の『エストニア紀行』では何を見つけることが出来るのかと期待が先にありました。こうゆう期待は慣れた作家を読むときにはどうしても出てしまいますが、実は邪魔になることもあって新鮮さを失う場合もあります。今回はどうでしょうか。

エストニアの旅は編集者、カメラマン、通訳やガイドを伴う大掛かりなものです。それでも梨木さんは「実はコウノトリの渡りに間に合うようにとも目論んで」います。ここで早速私は記憶に遊びます。子供向けの文学全集に納められていたお話にコウノトリの話がありました。どこの国のどんなお話であったかも忘れていますが、家の煙突に巣をつくる大きな白いコウノトリの物語で1頁いっぱいに描かれたコウノトリの絵が記憶にあります。本を読む度に新しいものとの出会いとともに記憶との再会があります。思い出された記憶は私を形成する何かです。

梨木さんはエストニアのタリンという街をスタッフと共に歩きます。大聖堂や城壁の塔、地下通路などを巡り、十字軍による侵攻、スウェーデンやロシア帝国による支配などヨーロッパのあちらこちらで見られる歴史を確認します。
紀行文を読む楽しさはガイドブックとは違います。梨木さんは其の事を通訳兼ガイドの宮野さんとの出会いの場面からこう言います。「私は、あ、面白い人だ、これから先、充実した旅になる、と、その時直感した。(中略)案内人に案内される国の印象は、どうしたってその案内人という個性のフィルターを、多かれ少なかれ、通して入ってくる。ガイドされるとき、私はいつも、そのフィルターの個性がどういうものであるかも、知りたいと思う。それが分かってくる過程で、その国の姿が様々に立体的に立ち上がってくるように思うから。」と。
私達は紀行文を読む時、旅先の風景や歴史や人々の暮らしを知るのですがそれは旅人である作者のフィルターを楽しみたいのです。

梨木さんの旅はエストニアの南東タルトゥへ向かいます。古い街道、田舎風景に車を留め道路脇に咲く草花の臭いに心を満たしたりコウノトリの巣を見つけたりします。電柱に大きいものでは5百キロにもなる巣を作るコウノトリ。停電被害を防ぐためにすぐとなりに電柱と同じようにポールを建て此方に巣を移してもらいたいと思いますが計画はうまくゆかずコウノトリは相変わらず電柱の方を好みます。その人とコウノトリとの関係にエストニアの人の朴訥とした緩やかな心情を知ります。
タルトゥの南、ヴォルという街のホテルは森に囲まれたところで、梨木さんは本領を発揮します。スーツケースから長靴を取り出しウインドパーカーを着て森に入ります。リゾート地のホテルで庭を歩くのとは違います。ミズゴケを踏みしめながら歩き、倒木の丸太に腰をおろして目を閉じ深呼吸をし森の音に耳をすまします。森と出会う旅です。

梨木さんはこう書きます。「ここ数日楽しく充実していたけれど、あまりに多くの人々に会っていたので、自分という生体がこうゆう時間を必要としているのだとしみじみ思う。」「じっとしていると、ときどき自分が人間であることから離れていくような気がする。人が森に在るときは、森もまた人に在る。現実的な相互作用(中略)だけでなく、何か、互いの侵食作用で互いの輪郭が、少し、ぼやけてくるような、そういう個と個の垣根がなくなり、重なるような一瞬がある。生きていくために、そういう一瞬を必要とする人々がいる。人が森を出ても、人の中には森が残る。だんだんそれが減ってくる頃、そういう人々はまた森に帰りたくなるのだろう。自分の中に森を補填するために。」
長い引用になりましたが、梨木香歩という人を知るところです。小説『沼地のある森を抜けて』でぬか床から生命の連鎖を描いたように梨木さんの世界には個が死と生との境界で浸透しあい新しい生命の輝きをもつところがあります。

若いシェフが穀物倉庫を改装して一人で切り盛りするレストランで食事をし、養蜂家やキノコ採り名人の女性、蛭で民間療法をするお爺さんを訪ねます。ところがこの蛭爺さんはとんだ食わせ物で、コーディネートした編集者は困った顔で「忘れてください」と言う始末。しかし梨木さんは「野卑や下品は、世界ぜんたいの豊かさを深める陰影のようなもの。そこだけ取り去ることはできない。未知の世界に足を踏み入れる以上、それはいつだって覚悟しておかなければならない。」と受け入れます。
私達の生活も全てが順風満帆とはいきません。仕事や人間関係、家族の問題や経済的事情、災害や病気・・・突然に、もしくはいつの間にか予期していない事情に囲まれてしまうことがあります。理想とは違う現実。もちろん、私達はなりたい自分になろうとすることが出来ます。しかしそうでない時、私達は現実を受け入れつつ自分を慣らして行くことも必要です。森の境界で浸透しあうように、それを受け入れた時、私達は変容し新しくなるのかも知れません。

旅は続きます。パルヌの街のジャコビアン様式の古いホテルで怪談騒ぎを体験し、編み物や機織りをして暮らす島の女性の生活に接します。コウノトリを探し、バード・タワーに案内してもらったり、バルト海の塩辛くない海水を味見してみたりもします。第二次世界大戦により人間が去った土地に植物や動物が住み着き新しい自然が再生していることを目の当たりにします。
そして旅の終わり、タリンの街を離れる飛行機の窓から、訪れた街、ムフ島やサーレマー島を眼下に見て梨木さんは「ああ、これは、あの、アフリカへ渡ったコウノトリたちの視点ではないか。」「彼らには世界がこういう風に見えていたのだ。永遠に連続する海と大地。」と思います。

そして私は思います。コウノトリは国と国とを結ぶ触媒なのではないか。森が死と生との境界を曖昧にしながら再生してゆくように、民族や歴史の中で境界を作っている人間と寄り添い「人間の生活する近くに住みたがる」と言われ、赤ちゃんを運んでくる子孫繁栄のイメージのあるコウノトリは、渡りをしながら境界を越え再生を運んできているのではないかと。

エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
(2012/09)
梨木 香歩

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古いものを楽しむ

お元気ですか?

当地はすっかり秋の様子。日中でも涼しい風が吹いています。

今日は夕方から当地のNHKが所蔵しているSPレコードを解説者の話を交えながら聴くというコンサートに行ってきました。
図書館に置いてあった手作りのパンフレットに「SPレコードは、1回限りの録音で後からの編集や加工ができなかったため、演奏に際しては緊張が持続され、スリリングな演奏が記録されています。」と書かれ、当地のNHKが音楽ライブラリーとして全国のNHK放送局から集約し一括管理しているレコードアーカイブスのSPレコードを聴くことが出来ると紹介されていたからです。

図書館の二階ホールにはプロジェクター・スクリーンを挟んでJBLの大きなスピーカーが置かれています。窓側では図書館の方2名がプロジェクター、NHKの方が3名がSPレコードとプレーヤーの操作をします。反対側には演台が置かれ今日の進行役をしてくださる解説者が座っていて、並べられた椅子にはまばらに人が集まっています。若い方は少なく年配の方が中心です。最近お邪魔しているオーディオショップで見かける人はいないかと見回してみますが、記憶にある顔は見当たりません。

図書館の方の挨拶で始まり、解説者の方がNHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」でナレーションをしている美輪明宏さんの真似をしながら日本語の美しい話し方を紹介して会場を惹きつけます。解説者の方は美輪明宏氏と同い年なのだそうです。
プログラムに添って曲の紹介が始まりました。最初はダカンとい作曲家の「つばめ」とリュリの「愉しい夢」。演奏者のランドフスカのチェンバロが大きい音が出るように細工されていた話やベルサイユ宮殿で活躍したリュリがフランス風の曲で宮廷の評判を得たのに対してイタリア風の曲を作曲していたシャルパンティエの人気が落ちてしまった話などを紹介しながらSPレコードの演奏に移ります。
SPレコードの演奏は蓄音機ではなくレーザー・ターンテーブルと呼ばれる針を使わないプレーヤーです。レーザー・ターンテーブルは数年前にNHKのニュースでも取り上げられていて興味を持っていたのですが、当時はまだ開発されたばかりで高額でした。今も受注販売のようですが、多くの大学や公共機関に導入され個人での購入も可能なくらいの価格になっているようです。ご興味のある方は株式会社エルプをご覧ください。
休憩時間にNHKの方と話をしてきたパートナーさんは「うちもこのプレーヤーにしようか」と言います。機械好きなパートナーさんらしい反応です。私も良さは理解していますから内心では使ってみたいとも思っているのですが、針を下ろすターンテーブルの感覚も好きですので此処は慎重にしなくては。

さて、曲の紹介や作曲家や演奏家の話を交えながらコンサートは進みます。お話は面白く選ばれた曲も良いので愉しいのですが、プロジェクターに出す映像が少しダメです。解説者の方が用意したと思われる本やレコードのジャケットを映しているのですが、映し方に配慮が足りません。グルックの歌劇「アルミード」をかける時に、グルックの顔を紹介するため「オルフェオとエウリディーチェ」のジャケットを映しているのですが、こうゆうのはいけません。他に用意出来なかったのでしたらせめてタイトルを隠して映さなければ観ている人に誤解を与えます。他にも演奏家の写真を説明も無く映したり、写真が斜めになったまま置いたり、本の頁をそのまま映して抑える指が映りだされたり・・・。プロジェクターを担当した人の不手際が目立っています。せっかくの映像もこれでは解説者の話に水をさすことになって逆効果です。
そんな素人くさい不手際はあったものの、久しぶりのSPレコードの録音はパンフレットに書かれていたように演奏の緊張感が伝わるいいものです。こうゆう資料を保存し聴けるというのは大切な事と喜びを感じます。

帰りの車の中、「高峰秀子のカンカン娘は知っていたね。」と言うパートナーさん。
「そうだね、ストコフスキーも知っていたよ。」と笑う私。
「また次回も都合が良ければ参加したいね。」と。

さて、古いSPレコードを楽しんだついでにパートナーさんが図書館で借りた本、『ビブリア古書堂の事件手帖』のお話。
「へぇ~こんな本頼んだんだ。」と言う私に、「本屋大賞をとった本だっていうからどうかなと思って」とパートナーさん。
「読み終わったら私にも貸して」と読んでみました。
鎌倉の駅前にある小さな古本屋さんビブリア古書堂。祖母の遺品である夏目漱石全集を持ち込んだ主人公は古書堂の女性店主の謎解きにすっかり感心し・・・と物語が始まります。古本と本そのものが持つ物語という視点は決して新しいものではなく、それを安楽椅子探偵という姿で謎解きをする店主。まあそうですね。本が好きな人には面白みを感じさせる設定と言っていいでしょう。でもね、文章がひどすぎ。内容が軽いのはそうゆうものだと思えばいいのですがせっかく古書をテーマにしながら物語が展開するのですから自身の文章をもう少しなんとかしなくては。この本、古本屋さんに残らないのではとちょっと悲しくなります。
それでも読み終え、パートナーさんに「続きも借りるの?」と聞いている私。どんな本を取り上げてお話を作るのかに興味があるのですが、ちょっと怖いものをのぞく気分でもあります。
「どうしようかな~」とパートナーさんも温度は低いようです。

本屋大賞は書店で働く店員さん達が読んで面白かった、お客さんに薦めたいという本を選んで贈る賞です。本屋さんで働く本好きの人という読者目線の賞という感じで、距離感が近い感じが評判を得ていると思いますが、さて、今回読んだ『ビブリア古書堂の事件手帖』は如何でしょう。本屋大賞がどうゆう仕組みで選ばれるのか知りませんがが選んだ人たちもちょっと困りながら選んだのではないでしょうか?

ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち (メディアワークス文庫)ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち (メディアワークス文庫)
(2011/03/25)
三上 延

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鎌倉を舞台にした『ビブリア古書堂の事件手帖』を読んでいたら、パートナーさんが職場の人からお土産をいただいてきました。鳩サブレです。縁ですかね。
これも古いお菓子です。鳩サブレを作っている豊島屋さんは明治27年(1894年)創業、鎌倉の老舗です。



古いものを大切にする気持ち、レコードも古本もお菓子も・・・ちょっと心地いいですね。

『エデンの東』

お元気ですか?

朝から強い日差しで蒸し暑いのですが風は9月の秋の臭い。昨日までの仕事の緊張から離れのんびりした週末を過ごしています。

WOWOWで『エデンの東』をやっていたので朝食前の一本で観ることにしました。『エデンの東』は小学生の頃、母に連れられて映画館で観ました。市電を降り家に帰る道、母が「男親と観るといいね」と言ったのを覚えています。
ジョン・スタインベックが原作を書いたのが1952年でエリア・カザン監督が映画にして公開したのが1955年ですから小説発表と同時に映画化権を買ったのでしょう。ジェームズ・ディーンの主役初出演ということでも映画ファンには記憶に残る映画ですが、ストーリーと共に映画としての完成度が高く何度観ても感心する映画です。

お話は、旧約聖書のカインとアベルの物語を下敷きにしていますが、映画では家族との確執、善と悪の存在、愛情の在り方などが示されていて丁寧な脚本により濃い内容となっています。
1917年、カルフォルニアのサイナスに住むキャルは双子の兄アロンと農場を経営する父アダムと暮らしています。敬虔なクリスチャンである父アダムは真面目で父の教えに素直なアロンを可愛がっていますが、奔放なキャルを嫌っています。アダムはキャルの中に家族を捨てて出て行った妻ケートの姿を見ると同時にキャルを受け入れられない自分を恐れているのです。母親は東部に行って死んだと教えられて育ったキャルとアロンですが、キャルはモントレーの港町で母親ケートがいかがわしい飲み屋を経営していることを知り会いに行きます。
父親に愛されていないのではないかとキャルは兄の恋人アブラに悩みを打ち明け、アブラは自分も父親の再婚で父親から捨てられた思いを抱いて傷ついた過去を話し心を近付ける2人。父アダムや兄のアロンの敬虔でよき人の生き方に息苦しさを感じています。
そんな折、アダムはレタスの冷蔵輸送を先駆的に試み運悪く失敗し破産寸前まで追い込まれます。キャルはアメリカの参戦で大豆相場が高騰することを知り母親に金を借りて相場で儲け、誕生日のプレゼントにと父親に渡そうとしますが、アダムはキャルの気持ちを理解しようとせず逆に非難します。父親に拒絶されたキャルを慰めるアブラを見て兄のアロンはキャルを罵りアブラに近づくことを禁じます。
絶望に落ちたキャルは兄を母親の処に連れて行き会わせ、母親の真実を知った兄は自暴自棄になって入隊し父アダムは衝撃から脳卒中で倒れます。

私にしては珍しくストーリーを書いてみましたが今回注目したのは演出についてでした。実は見始めた時はそれほど意識していたわけではなかったのですが、キャルの映像に影がしっかり付いている事に気がつきます。映画で影というのは珍しいものです。オーソンウエルズの『第三の男』の石畳に映る影は有名ですが、映画で影が描かれているとなると何か意味をもった演出と考えてもいいでしょう。

最初にキャルの影に気がついたのは映画の始まったばかりの処、キャルが自分の悩みを話しているシーンでした。壁にしっかりとキャルの影が映し出されます。聞き手役の人の影は薄く、ライティングを考えても意図的に影を作っているようです。そこでどのようなシーンでキャルの影が出ているのかに注意しながら観ることにしました。するとキャルが悩みながら行動するシーンに強く影が描かれているように見えます。影は何を意味しているのでしょう。
キャルは父親から疎まれ愛情を向けられることが無いので周りからも荒れた性格のように見られています。しかし、彼の言葉や行動を見る限りではとても素直で自分の心に正直です。戦争で非難の目を向けられたドイツ系移民を助けようとする姿もとてもヒューマンなもので、ナショナリズムに駆られている住民とは違っています。そんなキャルの自然な姿に影があるのは人間の中にある正邪両面合わせ持った姿を表しているのでしょう。それに比べ、父アダムや兄のアロンには影は描かれていません。自分のよき人を信じきって生きている彼らには自分の中にある影の部分を見る目が無いのです。人間に対して正直であるキャルの方がよき人である人間より苦悩に満ちた生き方をせざるを得ないのは皮肉で哀しい事です。
場面が進むにしたがって、キャルの影が苦悩を持った姿を表していることが見えてきました。すると次の興味がわいてきます。母親と2人で逢うシーンではどうなのかという事。これは実に驚くほどに影が無いのです。最初に探し当てて逢うシーン、穀物相場に張るお金を借りに行くシーンでは母親もキャルも影が描かれていません。同じ性質を感じ合う親子の姿を表す心通わすシーンです。互いに自然な心を素直に見せ合う親子に影は必要無いのでしょう。
終盤、父親に拒絶され、兄にもアブラに近づいたり話したりしてはいけないと、つまり家族ではないと否定されたキャルは木陰から出てきて兄を母親のもとに誘う時、そこに影が漂います。そして、母親の居酒屋につれて行き母親に合わせたドアを閉めた廊下にはキャルの黒い影が長く伸びるのです。
話はそれますが、この時の兄アロンの演技は秀逸で兄が自分の母親の存在を予感していたことをうかがわせています。言葉や態度ではなくアロンの困惑した表情の中にそれを表しているのですがこの演技の深みはたまりません。

今回観た『エデンの東』、パートナーさんが起きてくるまで時間があるからと見始めたのですが、ふと気がついた影にとても充実した見方が出来ました。私達は正しくあろうと思いますし正直であろうとも思います。しかしそれぞれがそうである時に、周りにいる人や親しい人と思わぬ諍いを生んでしまうことがあります。思想が違ったり、方法が違ったりと色んな事が原因ですが、親兄弟近しい人ほどその諍いは強く現れます。そこから救われるためには相手を許し、認めて愛することが大事でしょう。自分と違うものを許し愛することは難しい事ですが、拒否や非難からは何も生まれてきません。

私の影はどう皆さんに映っているのでしょうか。



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おまけ)

今回観た『エデンの東』は母と小学生の3年生か4年生の頃に観たのだと思います。母は自分が観たかったので私を連れていっただけなのですが、私の記憶に残る映画の一つとなってしまいました。今でも影響をもっているのですから、子供の頃の体験というのは恐ろしいものがあるとつくづく感じます。
今回は影に注目しましたが、果たして私の見方がエリア・カザン監督が意図したものと合致しているかどうかは全くわかりません。そう外れているとも思いませんが・・・。本にしても映画にしても音楽にしても、自分の興味の向いたところを確り注目すると同じ作品でも幾通りもの楽しみができますね。何回も観ている『エデンの東』ですが思わぬ楽しみを得ました。

皆さんはどんな映画の楽しみ方をなさっていますか?

『サウンド・オブ・ノイズ』

お元気ですか?

昨夜から強く降った雨は午後にはあがり、強い日差しと蒸し暑さを残して通りすぎて行きました。夜になればまた虫の声が季節を思い出させるのでしょうが、今聴こえるのは車の行き交う音ばかりです。

『サウンド・オブ・ノイズ』という映画をWOWOWで観ました。スエーデンの犯罪コメディーと解説にあったので興味をもったのですが、これがとっても面白い映画で、当り!って感じ。観るだけのつもりがDVDに焼いて保存版にすることにしました。
お話は、街にあるものを楽器にして音楽をつくる音楽テロ集団、病院では手術器具や患者さんを楽器にし、銀行ではお札をシュレッダーにかけたり、スタンプの音やパソコンのキーボード、ブルトーザーやショベルカーで地面を叩いたり、送電線にぶら下がって音楽を作り出します。それを追う刑事は音楽一家に生まれながらも音痴なため音楽が大嫌いです。
観ていると生活のあらゆる所に音の鳴るものがありリズムのあることを思い出して楽しくなります。ところが、刑事が一旦テロ集団に楽器として使われたものからは音が聞こえてこない事、“音が盗まれた”と気付きます。この刑事さん以外には普通に聞こえているのですからファンタジーの要素が組み込まれているのですがテロ集団と刑事との間に音に対する共通のセンスがあることが分かります。そのことは物語の終盤、刑事が始めて作曲をしてそれをテロ集団に演奏させることにつながるのですが、それをどう解釈するかは観ている人におまかせしましょう。

スタイリッシュで考えさせる要素満載の素敵な映画です。

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ところで、音痴というのはどうゆうものをいうのでしょう。聴いた音を正しく発声できない。音程・音階がずれてしまうとい事ですが、そもそも正確な音を再現するところに幅があります。お年寄りなど話す機会の少ない人は声を出すことすら難しくなります。長く歌わないでいたり声を出していなければ聴いた音を歌って出す事は難しいかもしれません。子供の頃は合唱団にいた私も今では歌を歌うことは全くありませんしカラオケにも行きませんから、いきなり歌えと言われたらちょっと音痴かも知れません。
病気のせいで音痴という事もありますから人の音痴を軽々しく笑ってはいけませんね。
リズム音痴という言葉もあります。スポーツジムでエアロビクスをやっていると分かりますが、動きがづれているいる人が何人かいます。大抵は動きが分からなくてインストラクターの動きを目で見てから動くので音とずれてしまっているのですが、これは動きが自分のものになってくれば直りますので気にする必要はありません。困るのは音を聴かずに自分のリズムで動いてしまう人です。リズムがづれている、ひとの動きとづれている事に全くお構いなしで動いています。インストラクターは「音を聴いてください」って声掛けをしますが、リズム音痴の人は大抵自分の動きに酔いしれていますから困った人になってしまっています。

先日テレビのニュースを見ていたら目の不自由な人が色をどう感じているのかを研究し、円形に色を配置して表す工夫を作ったという事を紹介していました。驚くことに言葉でしか分からない色を配置すると目で見える人の配置と変わらないのだそうです。これは何を示しているのでしょうか。
私達はものを見る時には目で見ています。しかし目で見る光は波長をもったエネルギーです。ならばもし目で見る事が出来ない場合は肌など別の感覚器官でそのエネルギーを感じ取っているのではないでしょうか。耳で聴き取れない聾の人が体で音を感じ取るのと同じです。そしてさらに興味深いのは目の見えない人は言葉つまり音で色を感じる点です。黄色や赤、青や紫といった色と名前(音)から感じられる物が同じだというのは実に驚くべき事です。私達は長い時間をかけて色を感じさせる音を見つけていたということです。逆に言えば言葉には色があるという事でもあります。

『サウンド・オブ・ノイズ』で音が盗まれた事に気がついた刑事は、音痴なために音楽一家の中ではのけものになっています。しかしもしかしたら他の人が気が付かない音を聞き分ける素敵な才能の持ち主なのかもしれません。
スエーデンらしいセンスがたっぷりの映画です。お薦めです、是非御覧ください。

予防になるかな?

お元気ですか?

当地、昨日と今日は青空の広がる良い天気です。でもさすがに陽の暮れるのは早く6時半にはすでに暗くなり始め、7時半には真っ暗。その夜の庭で虫がしきりに鳴いています。キリギリス?コウロギ?鈴虫はいないようです。私にはさっぱりわかりませんがきっと夏休みを満喫した小学生なら詳しいのでしょうね。昨日の夜はベランダから迷い込んだシオカラトンボ相手に捕物の親分になった私。子供の頃を思い出していました。

「今日は火曜日?あれっ月曜日だっけ・・・」と曜日が分からなくなったパートナーさんにつられて、私も勘違いが重なりとぼけた会話を2人でした昨日。
今日、パートナーさんがネットで調べたようで、
「アルツハイマーにならない食物って知ってる?」と私にクイズです。
「日本の食物?飲み物?」と訊くと違うそうで、
「オリーブオイルなんですって。だからギリシャ人やイタリア人にはアルツハイマーに掛かる人が少ないって。」
「それと赤ワインもいいの。」となにやら新しい情報にご満悦のようです。

「それじゃ、わが家はアルツハイマーにはならないね。」いつもパスタやタパス料理でオリーブオイルは必需品です。でもフランス人やスペイン人、トルコの人はどうなのでしょう。我が家のオリーブオイルはリーズナブルなトルコ産です。

健康は食生活と適度な運動から。その大切な食生活の舵取りをしてくれているパートナーさんが最近気に入っているのがデイツ。ナツメヤシの実です。
イスラム教のラマダン開けにはまずデイツで栄養をとるというほどにバランスのとれた栄養価のあるナツメヤシの実。パートナーさんとお買い物に行くとショッピングモールの中にある輸入食材のお店によって小袋を買ってきます。ネットでは1㎏2000円前後とお安いのですが、輸入業者やロットによる状態のバラ付きを考えると小袋で必要に応じて買うのを好み、毎朝一粒づつ食べるようにしています。健康管理にサプリメントは常識のようになりましたが、自然のものの方が気持ちがいいですね。

オリーブオイルにしろデイツにしろ自然から得られる栄養でアルツハイマーの予防になったり健康維持が図られることを思うと昔の人の知恵に感謝したくなります。
自分の事を忘れたり、徘徊したりするようになりたくはありませんし、大切なパートナーさんに「貴方誰?」なんて言いたくありませんからせっせと美味しい物を食べてワインを楽しみましょう。

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『恋肌』

お元気ですか?

昨日まで雨が続き、その雨の下でキリギリスが鳴いていました。今朝は一転快晴の青空。湿ったアスファルトの道をパートナーさんを送って車を走らせていると、車の事故に遭遇しました。軽自動車とミニバンの衝突事故で双方右前方が破損しています。軽自動車の人2人は道に座り込んでいますが、怪我はないようです。道路を挟んでミニバンはハザードを点滅させていますがフロント右側を中心に大きく崩れバンパーも落ちています。運転手はワイシャツ姿の若い男性で携帯をかけているのは会社に出勤が遅れるとでも連絡しているのでしょうか。一見ミニバンの方が大きく破損していています。坂道の途中に細く交わる十字路での事故ですが、どうゆう状況で双方が右側が破損したのでしょう。

交通事故は様々です。遭わないに越したことはありませんが、事故を見かけるとどうしてその事故が起こったのか想像してみます。興味本位なのではなく自分が事故に遭わない起こさないための頭の中のシュミレーションです。

桜木紫乃さんの『恋肌』を読みました。平成21年(2009年)の本で、2008年に「野性時代」に掲載された4作品と書き下ろしの2作品を収めたものです。北海道の作家で地元の風景を織り込みながら書いている事に興味を持ち図書館から借りて読んだ本は10冊になります。函館での生活でインタビュー番組を見たのも切っ掛けになっていました。
北海道の厳しい自然の中、田舎の農村や漁村であったり寂れた町であったりと確かにイメージできる風景が多く描かれています。作品の多くは女性が主人公で仕事や男との関係、住んでいる町や付き合いに揺れる心情がテーマです。
10冊目の『恋肌』を読み、桜木紫乃さんが私には合わない作家であることがよく分かりました。貧乏な生活と荒んだ性愛、すえた空気の中で展開される欺瞞の数々。
作家としての力量とか表現の特徴とかを私は問題にしてはいません。桜木さんが描く世界が私の世界と違うから面白く描けているなと思っても共感もありませんし感動もないのです。人間の世界ですから悍ましいものも沢山あります。ですが、そうゆうのは小説でたたみ掛けられるように読まなくてもいいのです。

『恋肌』を読みながら、もう桜木さんは読まなくてもいいね、と自分で了解します。読んだ後に自分の中で記憶にとどまりそれ自体が広がりをもってゆく作品。そうゆうものを読みたいと思います。
図書館のHPを開き、返却待ちになっている予約本2冊をキャンセルし、自分の気持ちに区切りをつけます。

でも、私は桜木紫乃さんを読んだ事を無駄だったとは思っていません。私に合わないという事がわかったのですから納得です。
さぁ、またムーミンを読みましょう。6冊目になる『ムーミン谷の冬』です。

恋肌恋肌
(2009/12/23)
桜木 紫乃

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杣人のNuages

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