プロフィール

杣人・somabito

Author:杣人・somabito
Nuages・・・雲のようにふんわりとしています

カレンダー
07 | 2015/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最近の記事
最近のコメント
カテゴリー
リンク
ブログランキング

FC2ブログランキング

人気のあれこれ!
月別アーカイブ
最近のトラックバック

辞書で遊ぼう

お元気ですか?

台風による被害の放送を見ていたら、パートナーさん「あっ、出張だ・・・」と言います。上司の方が会議で出張なのだそうですが、行先がまさに台風の目のある山口。新幹線などは走っているのでしょうか?テレビ画面を見る限りではとても人が集まって会議が出来る天気には思えません。パートナーさんもすっかり仕事モードの顔になって出かけてゆきます。



先日 Book off で三省堂の『新明解国語辞典第六版』を見つけたので買ってきました。これまでも漢和辞典や英和辞典を買って楽しんでいたのですが、国語辞典はなかなか出てきません。5月ごろ参考書や受験問題集と一緒に辞書も沢山並ぶようになったので、時々覗いては気に入ったのが並ぶのを待っていたのです。『新明解国語辞典』は今第七版が新しく出ています。少し前に第七版の革装版が2500円であったのですが、手に取って頻繁に使う辞書に革装は使いにくいのでパス。気持ちに合うものが出てくるまでじっと待っていました。今回欲しと思うようになってから半年、Amazonで買おうかしらという誘惑もぐっと抑えて待った甲斐があったというものです。

『新明解国語辞典第六版』は二冊ありました。一冊はポケット版で箱も本も綺麗で1200円、ポケット版は私には小さいので普通版を買います。こちらも箱と破れていますが帯もあり、本もビニールカバーがついています。お値段は980円。お値ごろだと思いますが、どうしてポケット版より安いのだろうと何回もページをパラパラしてみると、後ろの「世界の主要地名一覧」というところに一頁だけよれがが見つかります。ほかの頁にはよれは見つかりませんので製本なのか箱に出し入れしているときなのかははっきりしませんが、他には問題になりそうな箇所は見当たりません。問題の頁もよく見てみると、よれて皺になっていますが紙は切れていないのがわかりました。アイロンで修復可能です。
古本屋さんで本を買うときは出会った本を逃がさない事が秘訣です。神保町を歩いて他も見てから後で買おうと思って戻ったら無かったなんていう失敗を何度もしています。買うのを躊躇して後で悔やむこともいけません。本を探して買うというのは本との縁、出会いを楽しむ買い物ですから買うか買わないかその場で判断する、買い手の心意気が本に試されているのだと思います。

ということで、私は中を確認した辞書を箱に戻し大切に手に持って、この時私はきっと愛おしい本を誰にも渡すもんかといった空気を発しているのですが、パートナーさんのところに行きます。パートナーさんも読みたい本を探していますから、私は心の中で「何か見つかるといいな」と念じます。自分一人が買うのは少し気が引けますからパートナーさんにも何か買ってもらいたいのです。幸いパートナーさんも文庫本を見つけたようです。しかも天井のスピーカーから20%オフと聞こえてくるではありませんか。これは追い風です。

こうして『新明解国語辞典第六版』は私の机にやってきました。

私の机にはよく使う辞典が数冊並んでいます。その中には岩波の『国語辞典第三版』もありますので、奥付を見てみると第三版は1979年12月4日一刷、私のは1981年9月10日の三刷りであることがわかりました。35年前の辞書です。
『新明解国語辞典第六版』の奥付けを見ると1972年1月24日に初版が出て第六版は2005年1月10日第一刷となっています。10年前に出た辞書なのですね。私は辞書マニアではありませんから、第七版を買って比べてみるという事はしませんが、せっかくですから岩波と比べることはするでしょう。ちなみに岩波で収録語彙は58600、本体頁数1216、三省堂で収録語彙は76500、1651頁です。

新明解国語辞典に「久助」という語彙が収録されていて「吉野葛の異名」とあり美的表現とあります。ちょっとこの美的表現という解釈は?ですが、同時に「ビスケット・煎餅などのブランド製品の傷物で、値引きして売りに出されるもの」ともあります。以前私が久助という言葉を知ったきっかけになった使い方です。でもブランド製品とまで言うほどではないような気がしますが。そしてこの「久助」は岩波には収録されていませんでした。
もう一つ。新明解国語辞典で「矢」を調べてみると、数え方の説明で「①②とも一本。①は昔、二本で一手と言った。」とあります。①は弓矢の矢で②には矢じりを説明しています。弓道をやっている私は今も私たちは一手って言っているんだけどね。と心中で反論します。岩波には数え方は出ていませんでした。

辞書はいつも手元に置いておきます。大きい辞書は本棚ですが、基本は机の上や自分がすぐ手に取りやすいところに置いておきます。本を読みながら知らない言葉が出てきたり読めない漢字が出てきた時にはすぐ辞書を引いて確認しましょう。分かったような気になっているのは一番よくありません。私は海外ドラマを見ていて画面に映る英語やフランス語の言葉を調べたりもします。自分の語彙の不足を少しでも良くしたいと思うからです。学生時代不勉強だったつけが回ってきたと言ってもその通りなのですが、けっこう楽しんでいます。
出版社の方や編者の方には申し訳ない気もしますが、古書店で安く買った辞書で遊べるなんて、しかも10年でも20年でも使えるのですからとってもお得な辞書遊びなのです。

ではまた。

ことの顛末)

パートナーさんの上司は広島で新幹線が止まり駅構内で3時間待たされたのち動き出した新幹線に乗ることが出来ました。でも接続する在来線が運休したためバスで1時間以上乗って目的地に着いて会議に出たそうです。無事着くことが出来てなによりでした。そんな大変は出張でしたが上司の方からのお土産がこちら。

1508292.jpg  1508291.jpg

いつもお気遣いありがとうございます。

スポンサーサイト

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

今日の主役

お元気ですか?

まだまだ暑い日が続いていますが、それでも秋の涼しさを時折感じるようになりました。台風の進路も気になりますが皆様はいかがお過ごしでしょうか。

今日は道場で月例会に参加し弓友さんたちと充実した時間を過ごしたのち、午後はスポーツジムで1時間のスイムを楽しみます。なんて週末の充実していることでしょう。(すっかり自己満足の世界です)

そんなプールの帰り、パートナーさんとスーパーに寄って松の実を求めます。今日はバジルソースのパスタなのです。



プランターで育てたバジルですが摘むと手の中でふわっと青い香りが広がります。すり鉢で松の実と一緒に擂ってオリーブオイルを加えてバジルソースを作り茹で上げたパスタに絡めます。今回はソースにニンニクは加えていません。軽目に仕上げたかったのです。

1508222.jpg   1508223.jpg

豚肉のソテーの付け合わせは北海道のジャガイモと野菜各種、チーズとオリーブの盛り合わせ。

今日のワインはモーゼルのリースリング。冷蔵庫できりっと冷やすと最高です。




テーマ : 美味しかった♪
ジャンル : グルメ

Mr.サマータイム

お元気ですか?

初秋を迎え暑さの中にも涼しげな風を感じるようになってきました。トンボが飛んだり虫の声も聞こえています。皆さまの周りはいかがでしょうか。

パートナーさんの職場は国の機関でもありまして、国が掲げるこれしようという事は一応取り組むことを求められます。サマータイムの実施もその一つで、とりあえず可能な部署でやることになりました。

ある日先輩女史がパートナーさんに愚痴ったお話です。
「家の旦那の部署がサマータイムになって一時間早く出勤することになったの。だから私も一時間早起きして朝ごはんを一緒にするんだけど、私は今までと変わらない出勤だから早起きさせられたって感じなの。」

先輩女史さんの旦那様は同じ職場ですが部署が違い旦那様のところだけサマータイムが導入されたのです。

「でも一時間早く帰っているんだから家の事してくれるんじゃないの?」とパートナーさんがかえすと「それが、何処かに行っちゃって家に居ないのよ」と。

むむむ、これはまずい。家庭内問題に踏み込む訳にはいきません。

私が勤め人時代は遅~い帰宅が当たり前でしたからサマータイムがあったとしても大して変わりはなかったでしょうが、何せ国の機関はやることが四角いのでしょう、ちゃんと一時間早く仕事を終えるのだそうです。

「僕だったら道場に行くけど、旦那さん弓道やってないよね。」
「東京だったら皆でさっさと飲みに行くという形だろうけど、旦那さん何処に行っちゃうんだろうね。」

当地は車社会ですから居酒屋にちょっと寄り道というわけにはいきません。だとすると本屋さんやショッピングモールでぶらぶらでしょうか。でも男一人で目的もなくぶらぶらというのも想像がつきませんね。旦那様は何処に行っちゃうんでしょう。

何処に行かれているにしろ国が掲げるサマータイムの導入で家庭内がヒートアップしないようお願いしましょう。





夏の野菜

お元気ですか?

夏は野菜の季節というのは私の素直な感想で、子供のころ庭に茂ったトウモロコシを林に見立ててくぐって遊んだからかもしれない。家には小さなぶどう棚もあったが、家庭菜園をやっていた訳ではないのでこれと言って野菜を育てたり収穫した記憶はない。それでも夏と野菜が結びつくのは父の実家で過ごすとスイカやオクラ、胡瓜や茄子にトマトと食卓にならぶ野菜はみな家から海へ続く畑で収穫することが出来たからだろう。テレビで故郷から戻る子供たちの満足気な顔を見ると、きっとこの子たちもそんな経験をしたのだろうと我が事に重ね合わせて幸せのおすそ分けを頂戴している。

函館の伯父は畑をやっていて今回はジャガイモをお土産にいただいた。故郷に帰るといっぱいに詰め込んだ荷物があるにも関わらず、これもあれもとお土産が増えてゆく。そんな事はもう見越したことで、お土産用に段ボールを用意して宅急便で送りもするのだが、それでもやはり重たい思いをしながら列車や飛行機に乗る事になるが、故郷のお土産は一向に気にならないのは家に帰ってからも故郷を味わえる喜びがそこにあるからだろう。

伯父から頂いたジャガイモを早速食べているのだが、これが素人が作ったとは思えないほど美味しい。なぜ北海道のジャガイモを美味しいとあらためて書くのかというと、当地でも三方原のジャガイモというのが作られていてこれが驚くほどの旨さでありここしばらく私は少し悔しい思いをしていたからだ。そして追い打ちをかけるように、当地スーパーで売られている北海道のジャガイモはあまり美味しいとは思えない。正直なところ生きがよくないのだ。
当地に越してきて新玉ねぎの美味しさ、三方原のジャガイモの美味しさに北海道出身の私は感心すると同時に悔しさも味わってきた。農家の友人が玉ねぎの自慢をし、ジャガイモの自慢をするのに笑顔で賛成しながらお腹の中で北海道のジャガイモの美味しさはまた違うんだけどなと自分に言っていた。

今回伯父のジャガイモを食べてまず気が付いたことは、鮮度の良いジャガイモは美味しいという当たり前のようなことだった。澱粉質の甘い香りが上品に口の中に広がる。土の匂いを思わせるジャガイモもよいが今回のは優しい甘さだ。三方原のふわっとした美味しさとは別の力強さを持った美味しさだ。これまでジャガイモの美味しさはどちらかと言えば武骨で不器用な感じにあると思ってきたが、いやいやどうしてなかなか繊細である。



北海道のジャガイモ万歳! 

ジャガイモが夏の野菜かどうか知らないが、久しぶりの美味しいジャガイモに自信を取り戻した次第だ。

テーマ : 美味しかった♪
ジャンル : グルメ

夏が来れば・・・

お元気ですか?

夏、私は10歳になってプールで泳いでいる。小学生の夏休み、水泳教室があると言われ名前を書いたのだが、プールのある別の小学校は行ったことのない学校で、しかも開講までに間に合うように行くのにどのバスに乗れば良いのかも知らなかった。家から少し離れたバス停で一人バスに乗り学校に着いた時にはすでにプールサイドに生徒が並び、遅刻した私を先生は面倒くさそうな顔でグループに入るように促した。当然私は楽しむことが出来ず、昼過ぎに家に帰ってもその消化不良を引きづっていた。次の日も、その次の日も私は遅刻をつづけた。一旦楽しくないと思ったプールは私にはもうどうでもよかったのだ。
父の実家新潟の海で泳いでいたから泳ぐことに不安はなかった。プールで泳ぐより自由で平泳ぎやクロールで遊び時々立ち泳ぎをして山の位置を確認し、南に流されていると判ると潮に任せながら岸近くまで流され、それから岸に泳ぎついて歩いて戻る。そんな海の泳ぎはお手のものだった。逆にプールで決められたレーンを泳ぐのは苦手だった。だから夏のプールに参加したのにこれでは散々、逆効果だった。
結局私は大人になるまでプールが好きになれなかった。

そんな10歳の夏を思い出しながら、ジムのプールで1時間ほど泳いでいる。クロールを泳いでは体の力を抜きながらの泳ぎを工夫するし、平泳ぎでは北島康介のように伸びのある大きなストロークを試してみる。今日は久しぶりに背泳ぎをしてバサロを試してみたが以前と同じように出来たことに満足した。大人になってからジムのプールで仲間とレッスンを受けたことが私にプールの泳ぎを教えてくれた。やはり習うという事は大切なことなのだった。

車を走らせていると隣に座ったパートナーさんが「やっぱり半旗を掲げているね」と言う。見ると警察の入り口に掲げられた国旗が半旗になっていた。終戦の日、よその国では戦勝記念日でもあるらしいが戦争に勝ちも負けもない。

久しぶりにショッピングモールに出かけ、マッシュルームを求める。大きいのは手の平ぐらいもある肉厚なマッシュルームだ。

1508163.jpg

生でも食べられるから、サラダにしたりパスタにしてみる。

1508165.jpg 1508162.jpg

玉ねぎをすり下ろしたスープにもマッシュルームを浮かべる。

 1508164.jpg

プールで泳ぎ、好きなものを食べることのできる生活を送るとき、私たちは何を思い出すのだろうか。
私が学生の頃読んだ歴史哲学者はローマ時代のパン職人より現代に生きる私たちのほうがローマの事を理解している、と言った。私たちは過去の声を聴き今理解を深める知恵をもっているだろうか。願わくば未来の人々にそうだったと評価してもらいたい。

小学生の頃プールで不満気だった私が大人になってプールでも自由に泳いでいるように。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

函館 今回の食事

お元気ですか?

今回の函館ではいつものように食事を楽しむということをしていません。往きの新幹線も家でつくったお握りをもって乗ったくらいでしたし、夕ご飯やお昼ごはんも気が付いたら抜いていたという事がありました。そのぐらいスケジュールに追われていたのです。
ですからあまり気合いを入れたご紹介はできませんが、おまけとして。

最初はラーメン。
ramen1.jpg   ramen2.jpg

これまでも函館駅の近くを歩くと津々井軒というお店があるのに気が付き、どうなんだろうと思っていました。すぐ近くのお気に入りのお店が休みだったこともあり今回チャレンジします。パートナーさんは函館定番の塩ラーメン。私は好きな担々麺を頼みます。テーブル席と壁沿いにカウンターがある小さなお店で、若い男性が一人できりもりしているようです。食券を買って注文します。

最近函館では塩ラーメンに飽きてきたのか豚骨スープのラーメンが流行っているそうです。住んでいる人にはいいかもしれませんが、100年からの歴史ある塩ラーメンを軽々しく扱ってはいけません。函館に来たら塩ラーメンを是非食べて頂きたいのです。
津々井軒の塩ラーメンは基本的な塩ラーメンで、透明なスープにおふや鳴門がのっています。スープは少し甘めでこれは出汁の工夫でしょう。もう少しさっぱりした方が私は好きです。担々麺はごまペーストの甘さと豆板醤の辛さに山椒のピリッとしたところが相まって私は好きなのですが、どうでしょう。塩ラーメンと同じようにベースのスープに出汁の甘さが感じられマイルドな感じです。辛さもあるのですがインパクトに欠けていて私が求める担々麺の力強さがありません。北海道を意識してコーンの粒がのっていますが、これは感心しません。
それでも新しいお店ですし頑張っているのですから、今後の成長を楽しみにしましょう。中国人のカップルもスープをしっかり飲んで帰っていきました。

函館に来ると毎回やっているお寿司屋さん探検も今回は無理です。父の好きだった雷門鮨に行くことで今回のお寿司とします。
201508062.jpg  201508063.jpg

母と一緒だったのでカウンターではなく個室のテーブル席でいただきます。繁忙期なのでアルバイトなのか若いお兄ちゃんが注文を取りにきます。ビールをもらい、おつまみを頼みますが少し要領が悪く私は心の中で頑張れと言います。何回か板場と往復して北海しまえびが出てきました。これはオホーツツクのサロマ湖の特産で夏の短い時期にしか取れません。知り合いの漁師さんのお宅におじゃました時にはボウルいっぱいに朝水揚げされ浜ゆでされたばかりの北海しまえびを頂いたことを思い出します。お刺身の盛り合わせも頂きますが、写真を撮り忘れました。イカのゴロと軟骨のこりこりした食感、細切りにしたイカソーメン、最近函館近海で揚がるようになったブリなどが盛り合されています。
そんな盛り合わせに箸をのばしながら北海道の日本酒男山と、富山県の立山をパートナーさんと頂きます。
お寿司はおいしくボタンエビも追加。パートナーさんにはお店から北寄貝の握りもサービスしてもらいました。雷門鮨さんは個室が便利なので家族やグループでの利用も楽しいですし、会席の利用にもむいています。飛行場にも近いので帰るまえに最後のお寿司という利用客も多いお店ですから、地元にも観光客にも人気があるお寿司屋さんで、私もお勧めします。

さて、今回はあまり食事に力が入れられませんが、帰りの列車はお昼に出て夜着く予定です。普段は買えない駅弁を楽しむこととしましょう。
函館駅には昔から美味しい駅弁があって、もちろん森町のいか飯、長万部のカニ飯もお勧め。本州から着いた旅人は函館で駅弁を買い北海道に来たことを思いながらさらに北を目指します。
函館駅の駅弁売り場はお土産売り場と背中合わせでちょっと控えめなところにありました。北海道新幹線開業を控えてお弁当の種類も多くなっています。

0508081.jpg

私が食べてみたかったのは一番人気のみがき弁当。みがき鰊を戻して酒醤油で味付けしたものと、数の子が三切れづつこれでもかというボリュームでのっています。数の子の下にはめかぶもありました。北海道らしい豪快なお弁当です。ちょっと鰊がしょっぱかったですが。

0508083.jpg   0508084.jpg

パートナーさんが選んだのは新商品の箱舘新景というお弁当。ご飯とおかずの二段重ねになっていて、ご飯にはたらこや昆布の細切りがのっているのと、イカ飯(パッケージにはイカ寿司と書かれています)、昆布やアスパラ、ごっこ(お魚です)のから揚げやブリのエスカベッシュなど北海道の魚と野菜が彩よく盛られています。10時半に届いたばかりで限定ですというので迷わず選んで大正解でした。私たちが買うのを見て他のお客さんもご購入。「宣伝してくださいね」と思わず声をかけました。ニセコ山系の水で作ったお茶も美味しかったです。

0508082.jpg   0508085.jpg

新青森に着いたのが2時過ぎです。私はここでもお弁当を買います。東京駅で買うという考えもあるのですが、青森の駅弁というのを食べてみたかったからです。青森では海鮮ものの弁当の他に鶏をつかった弁当が何種類もあります。その中から私が選んだのが大舘の老舗花善さんの鶏めし弁当です。実は私は鶏そぼろが大好きでコンビニ弁当でもよく鶏そぼろのお弁当を買います。量が小ぶりでちょうどよいというのもあるのですが、もう一つ大切な理由があります。お弁当は持ち運ぶものですから火の入ったもの、おかずは特に痛みにくい調理をしたものであることが求められます。そして冷めても変わらない味で美味しく頂けることが大事です。その点からみてもこの花善さんの鶏めし弁当は全く申し分がありません。コンパクトな中にお弁当の神髄がきちんと整えられていて、哲学を感じるのです。

1508081.jpg   1508082.jpg

実は以前仕事で20人ほどのメンバーを連れて大舘に来た事がありました。その時秋田比内や 大館本店に寄り、昼食に比内地鶏の親子丼を食べたのですが、その美味しさに皆大満足で弁当を買うのを我慢してもらった甲斐があったものでした。調理場や配膳で働く若い女性たちも美人ぞろいで、私と仲の良い同僚はこっそり二人だけで次の日も行ったくらいでした。そんな思い出をパートナーさんも笑って、大舘の鶏めし弁当を「私にも食べさせてね」といいます。このお弁当は比内地鶏ではありませんが、これまで私が食べた駅弁の中でもトップクラスと言っていいでしょう。花善さんには豪華なお弁当もありますが、私は昔ながらのシンプルな中にお弁当の哲学が詰まったこの鶏めし弁当をお勧めします。

新青森ではお弁当の他にお土産も少し買いました。来るときは時間がなくて気が付くことすら出来なかったのですが、パートナーさんは見る事ができて私に「南部せんべい買って行ったら?」と言います。

0508088.jpg

お土産店は広くはありませんが壁沿いに並べられた商品がとてもわかりやすく無駄がありません。お店の中を歩いているだけで全ての商品に目がいくほど動線が良いのです。

0508086.jpg  0508087.jpg

そして私たちが立ち止まったのがお酒売り場。もう何も言わなくても良いですよね。じょっぱりは新宿の飲み屋でよく飲んでいた懐かしいお酒、喜久泉と白神をお買い求めです。

0508089.jpg  05080810.jpg

待合室の近くに棟方志功記念館で特別展示が開かれていることを案内し版画が飾られています。ねぶた飾りのミニュチュアも飾られています。

東北新幹線は夏休み時期子供ずれやグループ旅行の若者で賑わいます。お弁当は目の届かないところに仕舞、葡萄をつまんだりしながら車窓からの景色を楽しんでいるとあっというまに盛岡、仙台、宇都宮と東京に近づきます。見慣れた景色が東京で生活していたころを思い出させます。

青森ではまだお腹がすいていなかったパートナーさんが、サンドイッチでも買おうかしらとお弁当売り場を覗いて手にとったのがこちら。

1508083.jpg   1508084.jpg

お弁当が洋風になりましたね。

東海道新幹線に乗り換えてから鶏めし弁当と横浜オムライスを開きました。ゆっくり楽しんでいると掛川の空に花火が見えます。そろそろ到着です。

ではまた。

テーマ : お弁当
ジャンル : グルメ

父の死 その6 葬儀が終わって

お元気ですか?

私が函館に来た翌日に父が亡くなり、緊張の5日間が過ぎました。お越しいただいた方に参加してよかったと思っていただけるよう葬儀を行うことがなにより大切で、その意味では良い葬儀が出来たと喜んでいます。

さて、家族にとっては葬儀で終わりではありません。様々な手続きや家の整理、挨拶まわりなど母がこれから生活してゆくのに必要な処置を行う必要があります。しかも私たちがいるうちにですから時間はありません。
備忘録的に記してみましょう。

葬儀が終えた翌日3日月曜日。
お坊さんが家にお経をあげに来てくださいます。供物や仏具の意味を教えていただき、仏壇の用意についても尋ねます。函館駅に近いところに檀家でもある仏具屋さんがあることを教わります。
お坊さんが帰られると私は粗大ゴミの連絡をしてベッドやテレビを処分する段取りをします。パートナーさんは父の口座から引き落とされていた公共料金などを母の口座からに変更するため関係先に電話をかけます。この一日がとても大切です。
葬儀社の方が請求書を持って来ましたので、内容をチェックし私たちがいるうちにお支払いすることを伝えます。振込みではなく現金での支払いなのだそうです。

4日火曜日
お坊さんが来てお経をあげてくださいます。また私とパートナーさんで色々な事を訊きますが、正直なところお坊さんへの質問が楽しくなっています。知らない事、未知の世界を知る楽しみです。
お坊さんが帰られると市役所に出かけます。保険証の返納、葬儀をした家庭への給付金受け取りの手続き、そして母が遺族年金を受け取れるようにするための戸籍謄本や住民票など請求手続き。これらの事を市役所の窓口に行って行うのです。窓口の係りの女性は非常に手際がよくどうゆう手続きが必要かを説明しながら書類を出してきますので、パートナーさんと私二人で話を聞き書類に住所を書いたり判を押したりします。年金では委任状が必要でしたので、来る前にネットで委任状の書式を見て準備もしてきています。実はこの作業の間、父の死亡届けは葬儀社から31日金曜日に出されていたのですが、市の処理がまだ済んでおらず、父は死亡したことになっていませんでした。係りの方は連絡をとってすぐに処理をしてくれるよう担当部署に話してくれました。
市役所での作業に約1時間半ほどかかりましたが、パートナーさんと私と二人で行ったことは正解でした。話を聞き書類に記入しと同時に進みますので、ダブルチェックをして理解にもれの無いようにします。確かに係りの方の言う様にすればいいのですが、沢山の書類を処理するとき自分が何をしているか一つ一つ理解しながら進めることが大切でしょう。
こうして市役所で必要な書類を揃えると、今度は年金事務所に行くことになります。年金事務所は別なところですので電車に乗って行きます。此処でも順番待ちで1時間半ほど待たされましたが担当者は書類を確認しながらキーボードをたたき、私も必要書類に記入します。15分ほどで手続きは完了しました。
事前に必要な書類が分かっていましたし、委任状をネットで書式を見て作成していましたので窓口の方の説明も理解しやすかったのですが、それでも市役所と年金事務所での手続きで午後の大半が過ぎてしまいます。余裕をもって出かけることが大事ですね。
デパートに寄って生の鰊を買い、焼き魚で夕ご飯です。

5日水曜日。
この日もお坊さんが来てお経をあげます。初七日の最終日なのです。お坊さんが帰られると伯父の家に挨拶に行きます。私が函館に来ると必ず伺い、仏壇の前で祖父母に手を合わせます。伯父のところは曹洞宗で般若心経が置いてあるのでパートナーさんはこれなら短いから読めるねと声に出してお経をあげて楽しんでます。葬儀でのお礼を伝えいつものように昔話をしていると伯母が父と母が結婚したときの写真や母二十歳の時の着物姿の写真を持ってきて私たちにくれます。母は着物のいわれを教えてくれますし、伯母は当時の親類の生活の様子を話してくれます。こうゆう昔の話をすることが私には亡き人への供養のように思えますし、懐かしさもあって伯父の家に行き仏壇にお参りするのが好きなのです。
家に戻り昼食を済ませると、私たちは父が入院していた函館山の麓の病院に向かいます。父はこの病院が好きでしたし、看護師やリハビリで長くお世話になりました。母が入院したときには私も3ヶ月間通いましたからきちんと挨拶をしておきたかったのです。
入院していた5階に行き婦長さんに会い、退院してから亡くなるまでの様子を伝えます。入院中は几帳面でテーブルの上のスプーンやコップの柄の向きまで整えさせたり、一時帰宅の時には背広を着て嬉しそうにしていた父を婦長さんは印象深い人だったと言ってくださいます。毎日の忙しい仕事の中で記憶に留めていただいていることに感謝します。2階に降り、言語リハビリを担当していた女性にも会います。父が若い頃仕事をした土地の出身のこの女性を父はとても可愛く思っていたのです。お世話になったことのお礼を言い病院を出ました。

この日は函館の港祭りの最終日です。駅前に寄り電車通りを歩行者天国にして開催されているイベントを見てみます。アマチュアバンドのショーのようなのや、出店があるので眺めていると港祭りの踊りや最近函館で誕生したいか踊りの時間になりました。youtubeでもいか踊りを見ることが出来ます。ご興味のあるかたはどうぞご覧ください。実は私たちも実際に見るのは初めてなので面白がって見たのですが、どうも踊りが遠慮がちです。私もビデオ録画をしてみましたが、個人の顔がはっきり映ってしまうのでアップするのは止めることにし削除してしまいました。まぁそんなものです。

6日木曜日。
今日は朝から部屋の片付けをします。病院で使っていたものなどは捨てなければなりませんが、未使用の下着や買ったばかりのオムツなどもあります。パートナーさんが市役所の福祉課に連絡してNPOなど紹介してもらおうと思い電話すると父を担当していたケアマネージャーさんに相談してくださいと言いますので、そうすると家に来てくれると言います。何方かでも利用していただけると嬉しいのです。
午後、葬儀委員長を務めてくださったSさんの家にお礼に伺います。ここでも父の思い出話を1時間ほど。商品開発や試験的事業など私たちの知らない事を一緒に経験してきたSさんの話は楽しく、いつまでも話はつきません。
帰宅し宅配便を呼び荷物を出した後、母と三人で寿司屋に行きます。父が好きだった寿司屋で元気な頃は私たちが来ると必ずのようにこの寿司屋でご馳走になったものでした。父の葬儀とその後の事を無事やり終えた慰労会をするには相応しい場所です。
母も喜び、私たちも日本酒を飲み、夏の名物北海縞えびを頼んだりして北海道のお寿司を堪能します。お酒の力もかりてぐっすり眠った私は翌朝別人のように元気になっていました。

7日金曜日。
この日もお掃除を続けますが途中市場に出かけ私たち用のお魚を買います。いつものお店でほっけや鰈の干したもの、鮭のハラスを買うと、お店の人からくじ引き券を貰いました。今日は市場のお祭り日で100円でくじをひくと魚やメロンが当たり空くじなしだといいます。めったにないことなので二人で並んで順番を待ちます。箱の中に手を入れピンポン玉をとると番号が書いています。パートナーさんは紅鮭の半身、私は螺貝を30個ぐらい入った袋が当たりました。
そしてこの日の重要課題。法務局に寄ります。父の遺産処理なのですが、メインは家土地の相続・名義変更でそのために必要な手順を教わります。

8日土曜日。
今日はお昼の列車で函館を離れます。午前中荷造りをし、父の本棚から読みたい本や腕時計など小さなものを貰います。私の傍に置いておきたいものです。
そして改めて葬儀に関連した会計報告をし、お返しの準備や四十九日を過ぎ納骨の時にまた私たちが来る話、母は仮の仏壇が気になるようなのですが、この間私たちは仏具やさんにも行って相談をしています。慌てずに納得出来るように揃えるよう母に話ます。
そして今後の生活の事。85才になる母がこれからは一人で暮すことになります。父の看病という気の張り詰めたことも無くなるのですが、やはり健康には注意してもらいたい。週に二回のヘルパーさんも続けますが、いずれは一緒にも暮らしたいと私たちの考えを伝えます。ただ母の兄弟が函館に居ますので函館を離れて暮すことにやはり不安はあります。兄弟に不幸があったとき戻ってくることが出来るのか、気温の高い土地に移って体は大丈夫なのか・・・。そこで冬の間だけ試験的に来てもらうという案も提示してみると、それは良いねと乗り気です。
そんな会話をしながら時々父の遺影を見ます。父は今後の私たちを見守ってくれるでしょうか。それとも俺は充分に生きたのだから後はお前たちで好きにしろと笑っているでしょうか。思い残すことの無かった父ですから後の方かもしれません。


こうして函館での11日間が過ぎました。父は自分自身精一杯生き充実した人生を歩みました。私たち家族も同じようにやりたいことをさせてくれて私も親と離れて暮しています。それでも父は私が来るのを待って会話をし、私のお礼の言葉を聞くと翌日亡くなりました。そう考えると去年母が怪我をし私が両親の身の回りの事をするために函館で生活したのも、どうも父が私に世話をさせることで私が悔いを残さず納得出来るように仕組んだように思えてきます。母の怪我も手術とリハビリで全く元通りになり、好きな針仕事も問題なくやっています。
どうやら私たちは父の計画のもとで生きていたようです。ちょっと笑いたくなりますが、父に言う言葉は「有難うございました」とこれ以外には浮かんできません。私は父のおかげで素晴らしい人生を見させてもらい、私自身も自分の人生を楽しんでいます。

有難うございました。


テーマ : 日記
ジャンル : 日記

父の死 その5

お元気ですか?

父が亡くなって4日目、葬儀の日となりました。昨夜従兄弟たちとそれぞれの身の回りのことを話ながら遅くまで飲んでいたのですが、私はいつも通り4時には目が覚めてしまいます。二日酔いにはなっていませんがさすがに疲れがたまっているのを感じます。昨日葬儀場の係りの方から今日の進行について説明をもらい、出棺の時とお斎(おとき)の時に私から挨拶をするようにと言われ、例文のコピーを渡されています。その通りに暗記して話すわけではないので、必要なお礼の言葉だけを確認しておきます。特にお斎の時の挨拶は自分が話したい事を話すことにしました。

皆さんが起きる前にシャワーをあびて二階のロビーで涼んでいると一人二人と起きてきます。8時ごろ昨夜泊まった親戚が食事のため一階に下りる頃、父の部下だった人がご夫婦でいらっしゃいました。車で8時間かけて来たと言うのです。母に挨拶をし、私にも同じ歳だからと懐かしい様子です。思い出しました。父が仲人をした方で、新婚旅行で函館に来て私の家に泊まっていった方です。今も当時の仲間と連絡を取りあっていて父が亡くなったのを知り代表して来たのだそうです。

食事を済ませ控えの部屋で準備をしていると、司会の女性が来て今日の段取りを説明します。集合写真を撮り葬儀をし出棺、火葬場で約一時間半の間に軽い昼食をとり、お骨を拾い葬儀場へ戻ります。その後取越し法要を行い、お斎をし自然散会となるのだそうです。

9時半、会場に降り集合写真を撮り椅子を並べ直して着席し葬儀が始まります。お坊さんによる読経、葬儀委員長Sさんの挨拶が終わるとお棺の中に家族から始め皆さんで花が添えられます。叔母が持って来てくれた笹餅も入れられました。そして私が出棺の挨拶をし棺と一緒にバスに乗り火葬場へ向います。
火葬場は函館山のふもと、観光客も来る外人墓地の傍にあります。映画のロケにも良く使われていて「居酒屋兆治」では火葬場の横の野原で仲間たちが集まりお斎をするシーンが描かれています。火葬場に着くとすぐ読経をし火葬となります。火葬はあらかじめ時間が決められているそうですが、他の葬儀の方もあるので準備が整うと早め早めと進むようです。炉に運ばれ控えの部屋に向うところで葬儀社の人に促されお坊さんにお車代を渡します。焼いている間、軽い食事をとりますが予定していたより早く1時間ほどで終わりました。
焼きあがったお骨は真っ白で背骨も大腿骨も太くしっかりしています。頭蓋骨も崩れることなく綺麗です。シベリヤ抑留を経験するなど若い時に食べ物の不自由があったとは思えない力強い遺骨に係りの人も年齢にしては立派だと言いますし、親戚のみなさんも感心しています。その遺骨を一人一人が箸を持ち、骨壷ではなく木の骨箱に拾い入れます。二人で一つのお骨を拾うということはしません。頭蓋骨だけは数名で箸を下に入れすくいあげるようにして骨箱の中、先に入れた骨の上にのせると係りの人が砕き蓋が出来るようにしました。のど仏は別に小さな骨箱に入れます。のど仏は顔の前で手を合わせているように見えるので珍重するようですが、男性でものど仏のお骨が残る人とそうでない人がいるようです。残らない人はどうするのでしょうね。

葬儀場へ戻るとすぐ取越し法要が行われますが、その前にお坊さんの控え室に母と私とパートナーさんの三人で伺い今回のお布施などをお渡しします。お布施15万円、法名3万、永代経10万、御膳代1万です。火葬場で渡したお車代は5千円でした。この後、自宅に仮の祭壇が設けられると初七日までお坊さんが毎日午前中にお経をあげにきてくださるのですが、その代金もこのお布施に含まれています。その後は一週間に一回四十九日まで来てくださるのだそうで、それはそのつどお布施と志とを包んでくださいとの事です。お布施2千円、志千円。そんなお金のやり取りをしますが、お坊さんに渡したお金は領収書は頂きませんでした。そんなものなのでしょうか?

取越し法要では読経、ご焼香、パートナーさんの上司から届いた弔電が紹介されます。そして私が挨拶をします。朝から長時間の葬儀、法要です。ご香料、お供物などへのお礼を申し上げますが、加えて父の最近の様子をご紹介することにしました。私がこれまで出席した葬儀で故人がどうゆう様子だったのかが分かり難く、死因も知らされない事を不満に思っていたからです。看病時の様子や最後の様子を知ればそれぞれの人の中で納得がいくのではないかと思っていました。
葬儀委員長のSさんは父の業績にスポットをあてて弔辞をお話くださいました。そこで私は入退院を繰り返すようになったのが6年前であり、3年前の10月には医者に生命力が20%である事を言われ覚悟したこと、その時父は朦朧としながら自分が故郷にいるような感じで私たちに話しかけ、私はあぁもう向こうに行っているんだと思ったことなどを思い出しながら話します。父の心の中にはいつも故郷がありました。その後父は医者も驚くような回復を見せ、生きようとする力を私たちに示し感動させました。そうして今年の5月28日に退院しショートステイを組あわせた自宅療養に入るのです。しかし老いた父にもう体力はありませんでした。
母から電話をもらい7月29日に函館に着いた私は父と会話をし体をさすりながら、「もう眠ってください。眠れば痛みも忘れられるから」と話しかけます。この時私は心の中で父が永眠することを思っていました。父は延命措置はしなくていいと言っていました。人生を充分に生きた父ですから父も家族も納得しているのです。離れて暮す私のために延命措置をすることは父に対して失礼なことのように思います。ところが今回、父は容態が悪くなりながらも私の来るのを待っていてくれたのです。私に悔いが残らないよう最後まで父は自分の意志できちんと始末をしたのです。葬儀の最中お坊さんの読経を聞きながら私の中には「有難う」という言葉だけが浮かび繰り返しているのでした。

葬儀場での全ての儀式が終わり、私たちはお客様を見送り葬儀社の車で家に戻りました。30分ほどすると葬儀社の方がいらして仮の祭壇をつくり遺影や遺骨を飾り、お供物を供え蝋燭やお線香をつけます。お焼香盆やおりんもありますので当面はこれで間に合うようです。祭壇の整えが済むと明日また請求書を持って来ると言い帰っていかれました。

父の葬儀は終わりました。でもこれでお仕舞いではありません。このお話しはもう少し続きます。



テーマ : 日記
ジャンル : 日記

父の死 その4

お元気ですか?

父が亡くなって3日目、通夜の日です。11時にお経をあげにお坊さんが来ますが、それ以外夕方まで特に用事はありません。母とパートナーさんは髪を整えに美容院に行きたいと言いますが、母がいつもお願いしている処はお休みです。葬儀場の女性に訊きますが特に提携している処も無いので i Phoneで近くの美容院を地図で調べ電話をします。何軒か候補をパートナーさんに伝えるとパートナーさんはそこが良いと確信をもって店を決めます。何か根拠があるのでしょうか。私にはこういう時のパートナーさんの思考が分かりませんが大抵良い結果になります。二時間ほどで二人が戻ってきました母が「私のいつもやってもらっている美容師さんと知り合いだったよ。」と満足しています。

母に留守を頼み、私とパートナーさんは家に戻ります。洗濯物や遺影選びに持ってきたアルバムを持って帰り、家の片付けをしなければなりません。葬儀が終わり家に戻るとすぐ葬儀社の方が家に祭壇を作りに来ることになるからです。病院に呼ばれる時にはそこまで予定していませんから部屋を片付けスペースを作り、来客があっても大丈夫なように備えます。留守宅には弔電も届いていました。一時間半ほど掃除をし、マクドナルドで遅い昼食を取ります。アイスコーヒーを飲みながら、初めてマクドナルドを食べた頃はフィレオフィッシュが好きだったことを思い出したり、チキンナゲットを齧りながら、あっこれがあのナゲットだと思わず齧った切り口を見たりします。

タクシーで葬儀場へ戻ると新潟からの親戚がいらしています。父の好きな地元のお菓子をお供物として用意してくださり、朝一番で店に寄って笹餅を買ってきてくれています。私も笹餅をご馳走になりましたが笹に包まれた餅が柔らかくて美味しいものです。
叔母は父の妹、父が亡くなり、兄弟姉妹で最後の一人となりました。父の兄弟は皆仲が良く戦争中男兄弟は兵隊になって家を離れていますから親をたすけて良く家を守ったと生き残った兄弟二人は姉妹に深く感謝していました。父を見送るのに最も大切な叔母です。その叔母も85歳ですから函館に来るのも大変なのですが、娘や甥の付き添いを得て来てくれました。心中どれほど寂しいものなのでしょう。あまり多くを話さないのは思い出が多いからかもしれません。

夕方4時、控え室から棺が葬儀会場に運ばれ祭壇の準備が進められます。会場の様子を確認しに行き、届けられた花の飾る順番を決めます。受付には葬儀社の女性が二人すわり準備を始めています。事前に家族からも受付に人を配して欲しいと言われていましたが、親戚は皆高齢ですのでパートナーさんが受付につくことになります。ここで北海道独特の問題がおきました。
北海道ではお香典を持って来た方に領収書を渡すのです。パートナーさんも私もこれは始めての事なので、担当の方から受付の流れの説明を受けなければなりません。通夜・葬儀にいらした参列者は受付で香典を渡しお返しを受け取ります。このとき芳名帳に名前を書くことはなく、領収書を受け取ります。連名でのお香典には複数の名前が記されます。そしてすぐその場で記録簿に名前と住所、金額が記入されます。今回はここまでを係りの方がやってくださいましたが、親戚の人間がやる場合もあります。パートナーさんは受付の後ろで香典袋と現金を確認し手金庫に入れる役です。この領収書を渡す習慣は北海道が土地が広く遠方の場合地区を代表して参列することが多かったからなのだそうです。現金の授受があるわけですから私は理解できますが、お香典を渡した目の前で検められるのが嫌だと思う方もいるかも知れません。参列はしたいけどお香典は持ってきていないという方がいらしたらそれもまた無粋かもしれませんね。難しいところです。

お通夜が始まるころになると予定していた親戚の方は皆さん、私の知らない会社関係者の方、町内会の方、シルバー合唱団の方、と連絡を差し上げた方意外にも新聞の訃報欄を見て来た方がいらっしゃいます。特に会社関係の方は葬儀委員長を務めてくださるSさんが連絡をしてくださっていたのですが、父はOB会でも最高齢の一人でしたからいらして下さった方皆さん高齢です。それにしても会社を終えて35年もたつのにと思うと父と会社の関係がどれほど深いものだったのかと思います。これは後でSさんの弔辞にも現れるのです。

お通夜の式は葬儀社さんの司会係の案内で始まります。お坊さんが入場しお経をあげ法話があります。葬儀委員長Sさんから弔辞をいただきます。Sさんは会社勤めの時代とOB会とで60年の付き合いのある方です。私たち家族も知らない仕事での様々な事をご存知です。父は食品関係の製造業の会社に勤めていましたが、若くして抜擢され役職につき会社の中では商品の開発、高い品質とコスト管理などに能力を発揮し、業界でも名前が通っていました。まだ私が小学生の頃ですが新聞に名前が載っているのを見つけると、父は「他の会社に比べると規模が格段に違うから大変なんだよ」と少し誇らしげに教えてくれたことを覚えています。
農家の方には現金収入の道をつくり、技術指導も行い長く安定した農業が出来るように考えていたようです。町ぐるみ地域ぐるみで新しい農業へ変わってゆくため企業として携わってきました。後に農林水産省の要請で中国に技術指導者を派遣することになったとき、関係団体から推薦され父が行くことになるのですが、父は戦前に満州で働いたこともあったので喜んでいたものです。今回父の部屋を整理していて中国語の辞典やテキストがあるのをあらためて見ると、若い頃パイオニア精神をもって大陸に渡り戦後は北海道でその意志を貫いたのだなと感じます。
Sさんの弔辞は父の業績を通夜に集まった方に伝えたいという篤い思いでお話は長かったのですが私たち家族には重みが伝わる非常に有り難いものでした。

式が終わり列席者の皆さんがお帰りになります。食事をとりながら皆さんで父を偲びながら思い出話などして頂きたかったのですが、高齢の方ばかりですので多くの皆さんが帰られます。私やパートナーさんの経験では事前に食事の席に参加していただくよう案内の紙をいただいたりた事もありました。今回はそうゆう用意がありませんでしたので一人一人声を掛けるのですが、遠慮される方もいます。結局親戚やそのまま泊まられる方が食事の席につき、せっかくいらして下さった町内会や合唱団の方に席についていただけなかったのは残念でした。

それでも夜遅くまで父の棺の前で従兄弟たちと飲みあかすことが出来たのですから、良しとしましょう。



テーマ : 日記
ジャンル : 日記

父の死 その3

お元気ですか?

父が亡くなって葬儀社に運ばれ、母と私も父が横たわる部屋で一緒に泊まりました。朝、母が朝食を取り私も少しお相伴にあずかります。あまり食べる気にならなかったから母一人分の注文だけだったのですが、ご飯もおかずも予想以上に美味しいのです。配膳してくださった女性によると葬儀社の建物に厨房があり5人ほどの人が料理を担当しているそうです。これなら昨夜打ち合わせで決めたお通夜や葬儀を終えた後の食事も心配することはないでしょう。

食事を済ませしばらくすると葬儀社の担当の方が来て昨夜決めた内容の確認と今日の予定を伝えてくれます。11時ぐらいにお坊さんが来て枕経を行い、午後3時に湯潅・納棺が行われます。
お坊さんが着き昨日母の伝えた希望に沿って付けてきた法名を教えていただきます。母は父が好きだと言っていた文字が入った法名を喜び安心したようです。お経をあげるとお坊さんはお焼香の仕方を教えてくださいます。宗派によって少しづづ違うようですが違う宗派の場合でも自分の宗派のあげ方で良いそうです。確かに宗派それぞれのあげ方を知ることは出来ませんからね。

お坊さんが帰られ、私も母を残して家に戻ることにします。お金や礼服の準備をしなければなりません。葬儀委員長Sさんの車に乗り家に戻ります。家についてすぐお隣に挨拶に行き父が亡くなり葬儀のため家を留守にしていることを伝えます。併せて町内会のルールは分からないのですが葬儀のスケジュールをお知らせします。この地域では特に町内会で取りまとめて何かをするという事は無い様で、各ご家庭で新聞を見て初めて知り判断するのが普通なのだそうです。留守で無用心であるため忌中の紙も玄関に張り出すことはありませんし、家に弔問客のための用意をすることもしません。

銀行に行き当面必要になるお金をおろしてきます。現金はお坊さんへのお布施、法名代、火葬場へのお車代、お食事代、そして永代供養をお願いするお金などが必要になります。ちなみにこのお金の金額は葬儀社の方から教えていだいていましたが、お坊さんとも直接教えていただきメモを貰っています。火葬でお車代を渡し、葬儀が始まる前にお布施などを渡しましたが、お坊さんから領収書を貰うことはありませんでした。

家に戻り礼服の準備や遺影に使う写真をアルバムから探します。今は顔写真があれば葬儀社が背広姿に顔を合成して作ってくれますが、おしゃれだった父にそれは嫌です。書斎のアルバムを何冊も開いて何か良い写真が無いか探します。しかしこれがなかなか大変な作業です。写真は沢山あるのですがほとんどが旅行の写真などでラフな服を着ています。風景と一緒に撮っていますから人物のピントも甘くなります。親戚の法事で集まったときの写真は礼服を着ていますからどうかと思いましたが、今度は集合写真ですから一人一人が小さく引き伸ばしたときに無理が出ます。なによりほとんどの写真が素人写真ですので、光量が足りずピントが甘く、顔にも影が入ったりしています。私の知人で亡くなった時のことも考えて毎年正月に家族で写真を撮るという方がいますが、そうゆう準備も良いかもしれませんね。
遺影ですから父らしさを偲ぶことの出来るものを探します。真面目さや優しさがありしかもある程度の緊張感をもったもの。そこで旅行の写真でも海外のものはやめ、家族親戚との旅行も外します。礼服姿も集合写真は使えませんし、食事のスナップ写真もお酒が入っていたり顔を正面からとらえていませんから駄目です。こうして当たりをつけてゆくと、海外ですが戦死した兄を慰霊しにグアムに行ったときの写真で良いのがありました。もう一つはシベリア抑留で亡くなった方を慰霊した戦友との写真がありました。こちらは野外で撮られ光の量も充分です。背広も着ていますし穏やかな顔でありながら気のしまりも感じられます。アルバムごと持っていくことにします。

写真を探していると、突然の停電。何事かと思いブレーカーを見ますが、異常はなく、そのうちに外は物凄い雨が降ってきました。どうやら雨雲が移動しているようです。結局この雨は函館を2時間ほどで通りすぎましたがその後も北海道を西から東に移動しオホーツク沿岸で土砂崩れなどを起こしています。

家での用事を済ませた私は新潟から来る親戚のためにホテルの予約を電話でし、ホテルに行き支払いをします。函館は8月1日から港祭りで賑わいます。それでなくても夏休み中ですし観光客も多くホテルが取りにくいのです。
函館駅から葬儀場へ戻るにはタクシーを使います。お客様の事を考え値段と乗車時間を確認するためです。

こうして葬儀場に戻ったのが2時40分。母にアルバムの写真を見せていると担当の方が来て父の遺体を動かします。納棺師の方が来たのです。
納棺師の方はまず湯潅という遺体を拭き清め衣装を着せる作業をします。この間、私はおりんを鳴らし続けます。母とSさんは一円だまを6枚、きっと六文銭なんでしょうね、お米と一緒に袋に頭陀袋に入れます。納棺師の方はとても手際よく父の体を隅々まで拭き、着物を着せ替えてゆきます。全く無駄のない動作に見入っていると時々おりんを鳴らす私の手が止まりそうになるので、心の中で数を数えおりんの音の消えないうちに鳴らします。
約40分ほどで湯潅は終わり、葬儀社の方と私たち三人で父をお棺に納めます。ドライアイスを詰め、花をかざり蓋をして終了。お棺には故人の好きだったものや思い出の品などを入れることも出来ますが、母は「あの世に行くのに現世のものをもって行く必要はない」と言います。これが後でなかなか的を得た考え方であることが分かるのですが、それはまた別の機会に。
湯潅・納棺の儀が終わり、葬儀社の方に手際のよさ仕事の綺麗さに感心した旨伝えたところ、今回の納棺師さんの所属している会社は映画「おくりびと」で指導監修をした会社なのだそうで、やり方が映画とそっくりなのだそうです。納棺師さんも函館で一番腕の良い方なのだそうです。

納棺が終わると後は明日のお通夜を待つばかりです。私は参列いただく方のチェックや連絡の漏れがないかを確認します。夕食は近くのコンビニに行ってお弁当を買ってきます。昨日は夕ご飯、今日はお昼ご飯を食べていませんでした。
10時過ぎ、パートナーさんが到着しました。仕事を午後から休んで来てくれたのです。お疲れ様と軽くビールを一緒に飲みますが、三日ぶりのお酒でした。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

父の死 その2

お元気ですか?

父が亡くなり遺体は葬儀社へ運ばれました。私が函館に呼ばれ着いた次の日の事、予想以上な急展開です。

葬儀社に着くと遺族控え室が用意されていて、母と私は大きな畳の部屋へ通されます。担当の方が二人いらして、まず葬儀社との契約証書の確認を行います。両親は以前から月々支払う形で葬儀社の会員となっており、会員価格で葬儀が出来るのだそうです。
担当の方から葬儀の仕方について希望があるかどうか尋ねられますので、仏式で行うこと、真宗大谷派であること、家のある地区を管轄するお寺を伝えます。ただ、両親は檀家ではなく今回が直接的には初めてのお付き合いになることを伝えお寺への連絡は葬儀社の方からしてもらうようにします。
次に日程と葬儀の段取りの打ち合わせです。幸い友引など葬儀に差し障りのある日はありません。葬儀社の方から函館では通夜の前に火葬を先に行い、お骨になってから通夜・葬儀と進めるやり方があると説明があります。これは過去函館では大火が何回かあり、葬儀をした後に火葬をしていると順番を待っているうちに遺体が傷んでしまうことから火葬を先に行うシステムが出来たのだそうです。しかしこれだと参列者の方が遺体を見てお別れをするという事が出来ません。私たちは通夜、葬儀、火葬、取り越し法要と行うことにしました。

こうして打ち合わせを進める中、父の会社時代からお付き合いがありOB会の幹事長をなさっているSさんが葬儀社にいらしてくれます。日ごろから私たち家族もお付き合いがあり、昨年私が函館に来ていた時にもお会いし、父の会社の資料展示室にも案内してくださった事がありました。父の仕事を良く知った方ですから関係者への連絡もお願いしなければなりません。Sさんは母の傍に座り私たちと一緒に葬儀社との話を聞いてくださいます。私たちはSさんに葬儀委員長をお願いし、喪主は母、施主は私と決めました。

次は葬儀の規模です。何種類かある祭壇から値段や飾り方を決めます。どんな花を飾りたいかなども聞かれます。絵心のある母は祭壇の写真を見て「これがいいね」と選びます。大げさでなく簡素でもなく、花が多く明るい祭壇です。お坊さんも到着しお経をあげていただくお坊さんの人数も決めます。以前は三人四人といらしていただいた記憶がありますが、お布施料もかかりますので最近は一人でも良いそうです。門徒では法名というのだそうですが、その希望も伝えます。母は父の好きだった言葉・文字を一字入れて欲しいと言います。私は父の仕事を思い起こさせる漢字を入れて欲しいと言いますが、その字は法名には使えませんと却下されてしまいました。残念です。

こうして必要な事が葬儀社の方のリードで一つ一つ決まっていきますが、決して押し付けがましいところが無く、私たちの希望を聞きながら、時には函館でのやり方と北海道でも地域によって違いがあることをお話いただきながら決まっていきます。

Sさんは会社関係の人に電話をかけています。父は私たちが打ち合わせをしている部屋に布団をかけられて休んでいます。私は自分の連絡に漏れがないか、参列してくださる人数、食事の数、宿泊の有無などを考えています。

葬儀社に来て打ち合わせをしているうちに夜になりました。通夜は一日おいて明後日、葬儀は次の日と決まり母と私は葬儀社に泊まることとなりました。父のお線香を絶やさない役割ですが、実際は12時間も燈る蝋燭や螺旋になった8時間もついているお線香が静かに祭壇を飾ります。葬儀社の担当の方が明日のスケジュールを伝え、お線香をあげて帰っていきます。

こうして葬儀社での一日目が終わりました。あれ?この日私は夕食をとっていない事に今気がつきました。病室から私物を家に運び帰ったときに、野菜ジュースの缶詰や軽いお菓子を持って来ていたのですが、トマトと小さな羊羹を袋に詰めたのに持ってくるのを忘れています。行動の隙間、記憶の漏れがあると私は少し自分にいらいらするのですが、やはり何処か抜け落ちているのでしょうか。夜、トマトが食べたかったのにと悔しがりながら、布団についたのでした。


テーマ : 日記
ジャンル : 日記

父の死 その1

お元気ですか?

父が亡くなりました。平成二十七年七月三十日、満九十歳、行年九十二歳、この日が来ることを理解し準備してきたとはいえ私や家族にどのような変化が起こるのか、極めて個人的な事柄ではありますが、書いておきたいと思います。

父が再入院したのが約一ヶ月ほど前のことで、ショートステイ先から呼吸が苦しいので帰ると自分から言い、帰宅し翌日入院となります。薬で症状は和らぎますが、すでに体は老衰していますから体力は無く回復する様子はありませんでした。電話で様子を知らせる母の声からも父が難しい状態である事が推察できますが、私を呼ぼうかと問う母に父は呼ばなくていいと言っていまいた。

母から電話が来たのが7月28日の夜10時の事です。珍しく携帯電話のほうにかかり、容態が悪いので来た方が良いと言います。母がこうしたほうが良いと言うときはそうした方が良い、というのは子どもの頃から良くわかっています。翌日の飛行機は取れないので新幹線で帰ることにし、パートナーさんと諸事打ち合わせをします。私一人で帰省しパートナーさんに状況を連絡することにしますが、長期化することも考えられましたので、お互いのスケジュールの確認や行動のすり合わせをします。翌朝パートナーさんは職場に出、上司に様子次第で休みを取らなければならないことを報告し仕事の調整を図ります。私は新幹線に乗るべく駅へ向いました。

函館に着いたのは夜の7時8分、電車に乗り病院に着いたのが7時40分、母が一階夜間受付まで降りて来てくれていましたが、開口一番「どうしてもっと早く来ないの」とお叱りの言葉。「7時に着いて電車で真っ直ぐ着たのにいきなり文句言われるの?」と返すと「こうゆう時はタクシーですぐ来るもんでしょう」と。まぁごもっともかな。10分も違わないんですけど・・・。

夜間の病室に入ると父は口に呼吸用のマスクをし耳に酸素フォアードを測るセンサー、腕には点滴が注されていますが、目をしっかり開けて私の方を見て「来たよ」と言う私に「あぁ」と言います。意識も頭もしっかりしています。「函館に来させてくれて有難う」と言うと、「背中が痛い」とか「足が痛い」言いますから私が軽くさするようにすると安心したような目になります。すでに血流が弱く体のあちらこちらに痛みが出ているのです。ベッド脇の機械を見ると、酸素フォアードは93%ぐらい、血圧は70/33ぐらいです。私たちがいる間に看護師が来て機械を調整したりた体温を測ります。体温は37.3℃、高めですが昨日は37.8℃だったのだそうです。母は昨日より顔色が良いと言います。
すでに8時をまわり面会時間は過ぎています。私は父に「もう眠って。眠れば痛みを忘れられるから」と言います。「もう遅いから帰るよ、また明日来るから。」と言って母と私は病室を出ました。

翌朝、冷蔵庫にあるもので朝ごはんを用意しパートナーさんと電話で「まだお医者さんと話ていないし判断材料が無いので仕事を続けていて」と話ます。パートナーさんからも仕事や打ち合わせしてきた内容の状況報告があります。
朝食を片付けたあと、母に契約している葬儀社や納骨堂のパンフレットを見せてもらいます。事前に準備していた両親なのですが、私は内容を知らないので担当者と話をしておきたいと思ったのです。しかし母はまだ担当者に会うほどではないと思ったようであまり急がないでもいいような言い方をします。私は母の意をくみ、様子をみることにしました。

その時です。11時に家の電話が鳴り、母が取ります。病院からですぐ来てくださいとの事です。母はタクシーを呼び、私は今広げていたパンフレットをまとめて鞄に入れ服を着替えます。もう分かっていました。

病室に入ると静かな父がいました。計器を見ると数値は表示されていません。そこへ担当のお医者さんが来て、11時に容態が変化し呼吸が止まり脈もとれなくなったと言います。もう30分は経過しています。私は昨晩父に会い話が出来たことを伝え、感謝の意を伝えます。お医者さんから「ご家族がいらしたので11時35分ということで」と死亡宣告がなされました。

私も母もお医者さんに感謝の気持ちでいっぱいです。長い間難しい治療を続けてくださり優しく接してくださいました。人生を精一杯生きた父ですから亡くなって悲しいという気持ちよりも人生を全うしたことに対して良かったねという気持ちで満ちすがすがしさすら感じます。
私は病室を出て、主な親戚に電話で父の死亡を伝え、朝見ていた葬儀社へ電話をかけます。1時15分には病院に遺体を引き取りに来るといいます。その間に病室の私物を片付け父を見守っている母を残し私は一旦家に私物を持って帰ります。

病院に戻りしばらくすると葬儀社の方がいらっしゃいました。死亡診断書を持ち車に乗り葬儀社へ向います。お医者さん、看護師さんらが出口まできてくださり挨拶をし車に乗って頭を下げていると車が見えなくなるまでお見送りしてくださいました。

こうして父は病院を離れました。次は私たちの仕事、父を見送る作業です。私たちには初めての事、新しい事が始まりました。

このお話続けます。


テーマ : 日記
ジャンル : 日記

杣人のNuages

ブログ内検索
 RSSフィード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ホテル探しに!
クリックをお願いします!
Google