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杣人・somabito

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『哲学と子ども』

お元気ですか?

図書館に頼んでいる『容疑者』ロバート・クレイス著がなかなか廻ってきません。『その女アレックス』ピエール・ルメートル著と同時に頼んでいたのですが、予約者もほぼ同じ人数なのにどうしてなのでしょう。在庫の本が少ないのか、借りた人が皆さん時間をかけて読んでいるのか・・・。読む前に謎が。
待ち続けるのに飽きたので、何か読みたいなと梨木香歩さんの本を選んでいると『哲学と子ども』と言う本が目にとまりました。図書館のリスト検索には時々こうゆう事があります。アンソロジーだったり共著だったり、はたまた一見関係の無さそうな本がリストの間に出てくるのです。

『哲学と子ども 子どもとの対話から』はG.B.マシューズという大学で哲学を教えている先生が自分の四歳になる娘との対話を通じて子供の思考に哲学的なものがあるのに気づき興味をもったことから始まります。私は発達心理学や教育学の専門家ではありませんが、自分が子供の頃に考えていたことを思い出したとき、『哲学と子ども』という視点はとてもわくわくし、勇気づけられる気持ちがします。それは私が正に哲学する子どもだったからなのです。

マシューズ先生のお嬢さんが存在の第一原因を求めるという哲学的思考を示したのは四歳の事です。私が四歳のときに何を考えていたのかは思い出せませんが、はっきりと哲学的思考をし始めたのは小学生低学年の頃のことです。以前にもブログに書いたことがあるのですが、それはテレビで「おばQ」というアニメを見ていたときです。おばけのQ太郎は透明になって空を飛び、友達の家を訪ねます。友達はQちゃんに気がつきませんが、Qちゃんは面白がって次々と友達のところに行くのです。私はそのアニメを見ながら友達に気づかれないQちゃんははたして存在していると言えるだろうかと考え始めました。誰か他者に認識されないならば存在しているとは言えないのではないか。最初はそう考えます。でも今家に一人でいる自分は誰にも認識されていないけど確かにいる。無人島に一人でいても確かに自分は存在するだろう。それはたとえ自分一人だけであっても自分が自分を認識しているからで、自分が認識すれば存在しているといえるのだ。と考えました。これが私の哲学的思考のはじまりと言っていいでしょう。それほど印象的な出来事だったのです。

本書ではピアジェの認知発達の実験に哲学の立場から疑問を呈します。その中でイアンという六歳の男の子の例を紹介しています。イアンがよその家に行ったとき、その家の子三人がテレビを見ていてイアンの好きな番組が見られなかったことからイアンが母親に「なぜ一人のわがままはだめなのに、三人のわがままの方はいいの」と訴えたというのです。著者はこれを「たった一人の幸福よりも三人の幸福を」という功利主義の正当化の問題だと言います。大人でも難しい問題です。沖縄の人たちが基地問題で困っているのに日本の安全のためなら許されるのか。原子力発電は重大な問題を抱えているのに日本の電力や二酸化炭素問題のためには稼動させても良いのか。
学校教育の中でも、多数決という大義名分の下で嫌なことを押し付けられてしまう子供がいることを思い出すと、イアンの疑問はしごく正当なもののように思われます。

著者はほかにも道徳性の発達や子供が描く絵の芸術性について考察しますし、児童文学の作品の中に哲学的問題を含んだ作品があることを紹介しながら児童文学という世界を高く評価します。どうやら著者は子供の権利というものを広く認め子供という存在に高い意義を感じているようです。

「子どもと死」という章では『シャーロットのおくりもの』と『時をさまようタック』という本を紹介しながら子供がどのように死というものを理解しそれと向き合うのかを明らかにします。『シャーロットのおくりもの』は映画にもなってるクモが豚を助ける話で私も知っていましたが、『時をさまようタック』という話を私は知りませんでした。歳をとることが止まってしまったタック一家の話ですが、永遠の命というのは深く死について考えさせられます。こちらも映画にもなっているそうです。
この章では他の研究者の事例も紹介されていて、子供の死の理解には段階があることを示します。五歳以下の子供は死を理解せず眠りのようなものだと思います。小学校低学年では死が最終的なものだと理解はしますが、外的なものによるものという理解にとどまります。そして九歳から十歳ぐらいになると死が不可避的な生物学的過程と理解するというのです。
私が最初に経験した死は祖母の死で五歳でした。急な死でしたから母親たちが慌ただしく集まったのを覚えています。その次は祖父の死で八歳でしたがこのときは病院にお見舞いにも行っていましたし、仏壇に納めた祖母の遺影の前で手を合わせたりお坊さんが来てお経をあげたりという経験もしていましたから、祖父もいずれそうなるのだというのが理解できています。準備が出来ていたのです。私の場合、子供の頃に経験した近しい家族の死は祖父母二人でした。もし兄弟家族や仲の良い友達、同級生が突然亡くなる経験をしていたらどのように考えていのでしょう。
小児病棟で重い病気と闘う子供たちは事情が違うでしょう。彼らは自分の病状や周りの子供たちの様子を通じて非常に早く理解を進めます。これは死と直接向き合う病気でなくても同じ事が言えると思います。たとえば私が子供のころ、何人かの小児喘息の友達がいました。彼らは一様に冷静で判断力があり大人びて見えます。喘息で日常的に苦しむ生活が子供たちをいやおうなしに現実的思考に向かわせていたのでしょう。
私も彼らほどではありませんでしたが、アレルギーで悩まされていた時期があり、季節の変わり目など体調が変わりやすい神経質な子供でした。そんな時、朝病院に寄ってから一人で学校に向かうとき、やはり醒めた目で自分の姿を見なければなりません。特にアレルギーは薬を使ってもすぐに良くなるものではなく、長い間症状を我慢しなければなりません。その感覚はある意味で仏教的に生きることは苦であるということを私に教えました。

子供は哲学的思考をします。しかし子供をまだ発達途中の完成されていないもの、未熟なものと見ると、どうしても子供の思考を意味の無いものとして片付けてしまいがちになります。著者は子供とはなにかということ自体も問いますが、本書ではあまり深く触れてはいません。子供と言う概念は社会や文化の違いのなかで異なることに触れ、子供と大人の違いという問題が哲学的な問題であると提示されている程度です。私もこの点については著者に倣いふれません。

『哲学と子ども』はとても示唆に富む本でした。これから子育てをしようというお母さんやお父さんには是非読んでもらいたいと思います。子どもが大人になる前の未熟なものだと思うのはある程度は仕方の無いことかもしれませんが、その子どもの思考には大人の思考と比べても遜色の無い視点がある事を大人は受け止め、子供と向き合うとき大人は多くの事を学ぶ事が出来るようです。

さて、何故梨木香歩さんのリストのところに『哲学と子ども』が出ていたかが分かりました。臨床心理学を専門とする倉光修先生は出版社から本書を紹介され訳を進める中で梨木香歩さんに協力を頼み、共訳という形をとったのです。梨木香歩さんは素晴らしい文学者・作家ですが、カヌーで湖に漕ぎ出すなど自然に身を置くフィールドワークの達人でもあります。そして若い頃、河合隼雄先生の下でアルバイトをしていた経験を持ち氏の高い評価を得ていたのです。河合隼雄先生はユング心理学を日本に紹介した方で、児童文学にも造詣が深い方です。私も一時期読んでいたことがありました。そんな関係が倉光修先生と梨木香歩さんをつなげたのかも知れません。この共訳の関係はあとがきにもよく現れていて、すがすがしいものを感じます。

ではまた。

哲学と子ども―子どもとの対話から哲学と子ども―子どもとの対話から
(1997/11)
G.B. マシューズ

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