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杣人・somabito

Author:杣人・somabito
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下田の春2

お元気ですか?

下田の歴史散策を楽しんだ私達。ガイドマップにそって歩いた後に寄った観光案内所の方が吉田松陰の史跡を紹介してくださいました。夜は河津に宿をとってゆっくり休む予定ですが、明日もう一度下田で吉田松陰を訪ねることにしましょう。

ということで、2日目の下田です。河津から20分ほどで下田に戻り教えていただいた玉泉寺と弁天島を訪ねます。

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玉泉寺はハリスが日本初の米国総領事館を置いた処です。ロシアのデイアナ号の高官やドイツ人商人なども宿泊しています。多くの西洋人が出入りしたため、牛を屠殺して食料として供したことから日本初の屠殺場の跡という看板も立っています。江戸時代日本では牛豚などを食べることを禁じられていましたからこうゆう“日本初”もあるのでしょうが、実際はどうなんでしょう。山深い村落では鹿や猪、雉や山鳥を処理することは行われていました。屠殺を忌み嫌うこともあり、裏の文化が表に出てきたという見方も出来るかも知れません。

ハリス記念館もあり様々な資料も置いてありますからご興味のある方はどうぞ。私たちは吉田松陰が密航を企てた弁天島に向かいます。

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吉田松陰は文政3年(1830年)に萩に生まれています。叔父さんが開いていた松下村塾で学問を収め、11歳の時に長州藩主毛利慶親に御前講義するほど優秀だったと伝えられています。嘉永3年(1850年)江戸に出て佐久間象山に師事し、嘉永6年(1853年)浦賀沖に来たペリーの黒船を佐久間象山と見に行っています。黒船を見た松蔭は海外へ渡航する夢が湧いてきたのでしょう、同年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航したのを知ると乗せてもらおうと江戸から長崎まで40日かけて出かけます。しかしクリミア戦争の拡大に対応するため予定を早めてプチャーチンは出航し会うことはかないませんでした。松蔭が長崎に着いたのはプチャーチン出航のわずか2日後だったそうです。翌年3月、再度日本に開国を迫りに来たペリー艦隊に密航を企てます。下田はその密航事件の土地です。

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弁天島は現在下田市のジオサイトに登録されていて火山により堆積した火山灰などが層になっている様子が分かります。また斜交層理といわれる地殻変動による地層の傾きも見ることができます。

江戸にいた吉田松陰は3日かけて下田に入り渡航の機会を伺います。

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当時岡村屋と言った旅館は今下田屋旅館と名を変えていますが、吉田松蔭と同行の弟子金子重輔はここに宿をとりながら下田の街の様子を伺います。黒船が停泊中だった為街は警戒下にあり旅人の一人歩きなどは厳しく咎められ宿も簡単には泊めてくれなかったそうです。
この滞在中、もともと疥癬の皮膚病のあった吉田松陰は肌に良い温泉があると蓮台寺温泉に出かけます。

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村人の共同浴場であったところに夜中入っていた吉田松陰をたまたま風呂に入りにきた医者村山行馬郎が見咎め、自宅に招き話をするうちに打ち解け吉田松蔭は密航を企てていること話します。後に江戸で獄中に居る時も吉田松陰は自説を話し結局斬首になるのですが、どうやら熱意のあまりおしゃべりが過ぎる人だったようです。
このお風呂、現在も地域の共同風呂として健在ですが組合員の方専用です。駐車場のところに足湯がありますので観光客はそこで松蔭を偲ぶのもいいでしょう。

村山行馬郎は吉田松蔭の話を聞き驚きますが、二階の部屋にかくまったりし手助けをすることになります。

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茅葺きの大きな屋根は外から見ると平屋に見えます。

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しかし、当時取り外しの出来た階段を昇ると床の間もある二階部屋があり、天井板を戻すと一階からは分からなくなります。この二階に吉田松陰は隠れ過ごしペリーに届ける書を書いたりしています。

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一階には囲炉裏がきられ、土間の横にはお風呂が当時のまま残されています。
この村山邸ですが、現在は市の教育委員会が管理する建物になっています。私達が訪れたとき説明をしてくださった女性のお母様は村山家の子孫でこの家に住んでいたことがあるそうで、当時からすでにこのお風呂は使われていなかったのですが、吉田松陰も使ったお風呂ということで家の方が保存していたとのことでした。
江戸末期、各地に新しい時代を考え行動を起こそうとする人達が現れ、地域の篤志家はそうゆう人を応援しようとします。村山行馬郎もそうゆう一人だったのでしょう。

嘉永7年(1984年)3月。下田の街を歩いて機会を伺っていた吉田松陰は米国人の船員に出会いねじ込むように渡航の趣意書を渡します。そして漁師の船をみつけ村山邸に一旦戻り荷物をまとめて船のところに来ますが、干潮で船を出すことができず、弁天島の祠で夜になるのを待ちます。

吉田松陰と金子重輔は最初ミシシッピー号に乗船しますが、通訳がいなかったためポーハタン号に移り身振り手振りで渡航の意思を伝えます。ポーハタン号では先に渡されていた趣意書と照らして吉田松陰が本人であることを確認しますが、すでに江戸幕府と交渉中であることから渡航を許すことはなく、二人を送り返します。

吉田松蔭は斬首覚悟で自首し江戸に送られます。

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獄中で「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」と歌を読みますが、どうなんでしょう。行動の人と言えば言えますが、行きたいという思いに駆られた無鉄砲なだけの行動とも思えます。しかし、吉田松陰の熱意はペリーを感心させたことも事実で日本人の知識欲・好奇心を評価し日本に対する良い印象を与えています。
吉田松蔭はこの後蟄居を命じられ萩に帰され、松下村塾で高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、といった人達と出会います。吉田松陰の行動力に見られる人間力の強さはこれらの人達を強く感化し教育者・指導者としての面を浮き立たせています。
残念なことに吉田松陰の思いの強さは藩も持て余すほどで、再度投獄され、最終的には江戸に呼ばれて井伊直弼の安政の大獄で刑死することとなります。


下田の旅。観光マップをたよりにした散策と案内所の人の勧めに導かれて思わぬ歴史探訪をたのしみました。吉田松陰も特別に興味をもっていたわけでもありませんが、こうして訪ね歩いたことを書き残しておくことで当時の様子が私の中に記憶されていきます。

吉田松陰が密航を企てペリーに送り返された3月からすぐ、5月にはペリー艦隊は函館に向かいます。下田の旅は私にとって故郷函館を考えさせる旅でもあるようです。

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