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杣人・somabito

Author:杣人・somabito
Nuages・・・雲のようにふんわりとしています

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父の死 その2

お元気ですか?

父が亡くなり遺体は葬儀社へ運ばれました。私が函館に呼ばれ着いた次の日の事、予想以上な急展開です。

葬儀社に着くと遺族控え室が用意されていて、母と私は大きな畳の部屋へ通されます。担当の方が二人いらして、まず葬儀社との契約証書の確認を行います。両親は以前から月々支払う形で葬儀社の会員となっており、会員価格で葬儀が出来るのだそうです。
担当の方から葬儀の仕方について希望があるかどうか尋ねられますので、仏式で行うこと、真宗大谷派であること、家のある地区を管轄するお寺を伝えます。ただ、両親は檀家ではなく今回が直接的には初めてのお付き合いになることを伝えお寺への連絡は葬儀社の方からしてもらうようにします。
次に日程と葬儀の段取りの打ち合わせです。幸い友引など葬儀に差し障りのある日はありません。葬儀社の方から函館では通夜の前に火葬を先に行い、お骨になってから通夜・葬儀と進めるやり方があると説明があります。これは過去函館では大火が何回かあり、葬儀をした後に火葬をしていると順番を待っているうちに遺体が傷んでしまうことから火葬を先に行うシステムが出来たのだそうです。しかしこれだと参列者の方が遺体を見てお別れをするという事が出来ません。私たちは通夜、葬儀、火葬、取り越し法要と行うことにしました。

こうして打ち合わせを進める中、父の会社時代からお付き合いがありOB会の幹事長をなさっているSさんが葬儀社にいらしてくれます。日ごろから私たち家族もお付き合いがあり、昨年私が函館に来ていた時にもお会いし、父の会社の資料展示室にも案内してくださった事がありました。父の仕事を良く知った方ですから関係者への連絡もお願いしなければなりません。Sさんは母の傍に座り私たちと一緒に葬儀社との話を聞いてくださいます。私たちはSさんに葬儀委員長をお願いし、喪主は母、施主は私と決めました。

次は葬儀の規模です。何種類かある祭壇から値段や飾り方を決めます。どんな花を飾りたいかなども聞かれます。絵心のある母は祭壇の写真を見て「これがいいね」と選びます。大げさでなく簡素でもなく、花が多く明るい祭壇です。お坊さんも到着しお経をあげていただくお坊さんの人数も決めます。以前は三人四人といらしていただいた記憶がありますが、お布施料もかかりますので最近は一人でも良いそうです。門徒では法名というのだそうですが、その希望も伝えます。母は父の好きだった言葉・文字を一字入れて欲しいと言います。私は父の仕事を思い起こさせる漢字を入れて欲しいと言いますが、その字は法名には使えませんと却下されてしまいました。残念です。

こうして必要な事が葬儀社の方のリードで一つ一つ決まっていきますが、決して押し付けがましいところが無く、私たちの希望を聞きながら、時には函館でのやり方と北海道でも地域によって違いがあることをお話いただきながら決まっていきます。

Sさんは会社関係の人に電話をかけています。父は私たちが打ち合わせをしている部屋に布団をかけられて休んでいます。私は自分の連絡に漏れがないか、参列してくださる人数、食事の数、宿泊の有無などを考えています。

葬儀社に来て打ち合わせをしているうちに夜になりました。通夜は一日おいて明後日、葬儀は次の日と決まり母と私は葬儀社に泊まることとなりました。父のお線香を絶やさない役割ですが、実際は12時間も燈る蝋燭や螺旋になった8時間もついているお線香が静かに祭壇を飾ります。葬儀社の担当の方が明日のスケジュールを伝え、お線香をあげて帰っていきます。

こうして葬儀社での一日目が終わりました。あれ?この日私は夕食をとっていない事に今気がつきました。病室から私物を家に運び帰ったときに、野菜ジュースの缶詰や軽いお菓子を持って来ていたのですが、トマトと小さな羊羹を袋に詰めたのに持ってくるのを忘れています。行動の隙間、記憶の漏れがあると私は少し自分にいらいらするのですが、やはり何処か抜け落ちているのでしょうか。夜、トマトが食べたかったのにと悔しがりながら、布団についたのでした。


テーマ : 日記
ジャンル : 日記

父の死 その1

お元気ですか?

父が亡くなりました。平成二十七年七月三十日、満九十歳、行年九十二歳、この日が来ることを理解し準備してきたとはいえ私や家族にどのような変化が起こるのか、極めて個人的な事柄ではありますが、書いておきたいと思います。

父が再入院したのが約一ヶ月ほど前のことで、ショートステイ先から呼吸が苦しいので帰ると自分から言い、帰宅し翌日入院となります。薬で症状は和らぎますが、すでに体は老衰していますから体力は無く回復する様子はありませんでした。電話で様子を知らせる母の声からも父が難しい状態である事が推察できますが、私を呼ぼうかと問う母に父は呼ばなくていいと言っていまいた。

母から電話が来たのが7月28日の夜10時の事です。珍しく携帯電話のほうにかかり、容態が悪いので来た方が良いと言います。母がこうしたほうが良いと言うときはそうした方が良い、というのは子どもの頃から良くわかっています。翌日の飛行機は取れないので新幹線で帰ることにし、パートナーさんと諸事打ち合わせをします。私一人で帰省しパートナーさんに状況を連絡することにしますが、長期化することも考えられましたので、お互いのスケジュールの確認や行動のすり合わせをします。翌朝パートナーさんは職場に出、上司に様子次第で休みを取らなければならないことを報告し仕事の調整を図ります。私は新幹線に乗るべく駅へ向いました。

函館に着いたのは夜の7時8分、電車に乗り病院に着いたのが7時40分、母が一階夜間受付まで降りて来てくれていましたが、開口一番「どうしてもっと早く来ないの」とお叱りの言葉。「7時に着いて電車で真っ直ぐ着たのにいきなり文句言われるの?」と返すと「こうゆう時はタクシーですぐ来るもんでしょう」と。まぁごもっともかな。10分も違わないんですけど・・・。

夜間の病室に入ると父は口に呼吸用のマスクをし耳に酸素フォアードを測るセンサー、腕には点滴が注されていますが、目をしっかり開けて私の方を見て「来たよ」と言う私に「あぁ」と言います。意識も頭もしっかりしています。「函館に来させてくれて有難う」と言うと、「背中が痛い」とか「足が痛い」言いますから私が軽くさするようにすると安心したような目になります。すでに血流が弱く体のあちらこちらに痛みが出ているのです。ベッド脇の機械を見ると、酸素フォアードは93%ぐらい、血圧は70/33ぐらいです。私たちがいる間に看護師が来て機械を調整したりた体温を測ります。体温は37.3℃、高めですが昨日は37.8℃だったのだそうです。母は昨日より顔色が良いと言います。
すでに8時をまわり面会時間は過ぎています。私は父に「もう眠って。眠れば痛みを忘れられるから」と言います。「もう遅いから帰るよ、また明日来るから。」と言って母と私は病室を出ました。

翌朝、冷蔵庫にあるもので朝ごはんを用意しパートナーさんと電話で「まだお医者さんと話ていないし判断材料が無いので仕事を続けていて」と話ます。パートナーさんからも仕事や打ち合わせしてきた内容の状況報告があります。
朝食を片付けたあと、母に契約している葬儀社や納骨堂のパンフレットを見せてもらいます。事前に準備していた両親なのですが、私は内容を知らないので担当者と話をしておきたいと思ったのです。しかし母はまだ担当者に会うほどではないと思ったようであまり急がないでもいいような言い方をします。私は母の意をくみ、様子をみることにしました。

その時です。11時に家の電話が鳴り、母が取ります。病院からですぐ来てくださいとの事です。母はタクシーを呼び、私は今広げていたパンフレットをまとめて鞄に入れ服を着替えます。もう分かっていました。

病室に入ると静かな父がいました。計器を見ると数値は表示されていません。そこへ担当のお医者さんが来て、11時に容態が変化し呼吸が止まり脈もとれなくなったと言います。もう30分は経過しています。私は昨晩父に会い話が出来たことを伝え、感謝の意を伝えます。お医者さんから「ご家族がいらしたので11時35分ということで」と死亡宣告がなされました。

私も母もお医者さんに感謝の気持ちでいっぱいです。長い間難しい治療を続けてくださり優しく接してくださいました。人生を精一杯生きた父ですから亡くなって悲しいという気持ちよりも人生を全うしたことに対して良かったねという気持ちで満ちすがすがしさすら感じます。
私は病室を出て、主な親戚に電話で父の死亡を伝え、朝見ていた葬儀社へ電話をかけます。1時15分には病院に遺体を引き取りに来るといいます。その間に病室の私物を片付け父を見守っている母を残し私は一旦家に私物を持って帰ります。

病院に戻りしばらくすると葬儀社の方がいらっしゃいました。死亡診断書を持ち車に乗り葬儀社へ向います。お医者さん、看護師さんらが出口まできてくださり挨拶をし車に乗って頭を下げていると車が見えなくなるまでお見送りしてくださいました。

こうして父は病院を離れました。次は私たちの仕事、父を見送る作業です。私たちには初めての事、新しい事が始まりました。

このお話続けます。


テーマ : 日記
ジャンル : 日記

父の再入院

お元気ですか?

台風が来て各地に被害が出ているようです。お見舞い申し上げます。
昔々、私が合唱部にいた頃、「台風が来て水が出た 日本東京秋が来て ちっぽけな象がやってきた」という歌詞の歌がありました。以前は台風をいくつか経験すると秋になったものでしたが、最近は夏になる前から台風が来ます。函館に住んでいた私には梅雨の経験が無く、台風が頻繁に来たという記憶もありません。それだけによけいに沖縄や四国といった台風の直撃を毎回のように受ける地域の人はどのような思いで暮していらっしゃるのだろうと思うのです。

五月の末にそれまで入院していた病院を退院し、自宅介護に切り替えた父が入院しました。7月2日のことです。ショートステイに行っていたのですが、呼吸が苦しいから帰宅すると訴え帰って来たのですがその日は木曜日で病院の外来受付がやってなく、翌日病院に行きそのまま入院となったのです。父は様子を見るとか我慢をするということをせず、体調がおかしいと思うとすぐ訴えて行動に移します。家族にとってこれはとても有難いことです。
退院してからしばらくは食事がしっかり取れて便も出ていたのですが、数日前から食が細くなっていました。やはり老齢による体力の衰えかと心配していよいよかも知れないと思っていました。私は何も出来ることがありませんので、母から電話で容態を聞くばかりです。熱は無く意識もしっかりしている。食事をとる元気がないので点滴で栄養をいれている。痰が出るのでカテーテルで吸出している・・・。そんな母からの話を聞いて容態を想像します。意識がしっかりしているという事で差し迫った心配はしていなかったのですが、それでも痰が出たり呼吸がつらいということから容態が急変することもありえると考え緊張感を持ちます。あぁどうか良くなって欲しいと願うばかりです。

もともと前の病院を退院するように言われた時からこのことは予想していました。父にとって家に帰れることは嬉しいことですが、病院にいるよりも体力の消耗は多いはずです。母の負担軽減からショートステイも組み入れていますが、それも体力の弱っている父には負担だったのでしょう。気持ちが晴れて食が進んでいたとはいえ老いた体は回復するよりも消耗するほうが多かったのです。

再度の入院から二週間。母から電話で痰を検査して薬を選んだところ効果があり父の呼吸が楽になったと知らせてきました。母の声に安堵の様子がよく分かります。「誕生日までがんばって生きてね」と言う母に父は「それだけか」と返すので「次は正月があるでしょう」と応じると父は静かに笑うのだそうです。私を呼ぼうかと言う母の言葉にも「呼ばなくていい」と言うのだそうです。

私たちはそんな父の様子を知り、離れて暮らす不便を許し私たちのやるべき事を成せと叱咤する父の気持ちを感じずにはいられません。去年私が函館で看病していた時にも父は私の事を気遣ってくれていました。親とはそういうものなのでしょうか。
親の愛情、気持ちというものよりもっと大きなものを感じますが、私には上手く言い表すことが出来ません。

昔々、私が合唱部にいた頃、父は私が歌うのをとても喜んでくれていました。悪戯にヨーデルのようなことをするともっとやって見せろと催促すらしました。父も子どものころ小学校の先生に良い声だと誉められ嬉しく思ったことがあったからです。その時は「星の界」という歌を歌ったのだそうで、私に楽譜は無いかと訊いてきたこともありました。
父に残された時間はそれほど多くはありませんが、父の様々なことを思い出し記憶に留めることが私に出来るせめてもの事です。


父の退院

お元気ですか?

北陸新幹線が開通して昨日で二ヶ月になった。お祭り騒ぎのような報道にテレビというのはどうしてこう横並びの番組を作るのだろうとすこし引いてしまう。GWも近づいたある日の報道では金沢駅の問題点として駅にコインロッカーが少ないこと、ゴミ箱が無いことを紹介していた。駅のイメージ、デザイン性を優先してのことだという。待望の新幹線開通であるしPR活動も行ってきたのだから準備もしただろうに来客数の予測をはるかに上回ったということなのだろうか。それとも一時の人気と考え設備を抑えたということなのだろうか。私も大好きな金沢である。落ち着いた頃に行って地元の人から話を聞いてみたいと思う。


この二ヶ月間、私たちは父の退院にむけて準備をしてきた。六年ほど前から短い入退院をするようになり、三年前に現在入院中の病院に移った。肺や心臓も弱まり一時は生命力20%と医者から言われ、私たちが駆けつけた時には朦朧とし新潟の実家の事ばかりを話す父は明らかに川を渡っていた。その父が少しづづ回復し去年私が帰省したときには車椅子で移動しリハビリ室に行き、バーにつかまって往復の歩行をしたり言語療法士の方に付き添われて童謡を歌ったり出来るまでになっていた。しかしその後の一年、病状は安定したものの体力の回復は望めず寝たきりの状態が続くようになった。老衰である。病院としてこれ以上は入院を続けることは意味が薄いと考え退院を提案してきた。その期限が五月末だった。

父は家に帰られると喜び、母も父が喜ぶならと覚悟を決めた。以前からお世話になり家の事情も理解しているケアマネージャーさんに連絡し、在宅ケアのプランを作ってもらうことにする。母はすでに父が入退院をするようになった歳になっていて父のオムツ換えなど力仕事は出来ない。ケアマネージャーさんが作ってくれたプランは三泊四日のショートステイを入れた在宅介護で、自宅にも毎日、日に三回着替えやオムツ換えのためにヘルパーさんが来てくれるというものだった。母の負担を考えると良いプランに思えるが、父が納得してくれるかが気がかりだった。

五月八日、病院に行き医者、看護士、療法士、病院と相談してるケアマネージャー、父も含めた私たち家族でカンファレンスが行われた。それぞれの立場から父の状態についての説明があり、私から病状が悪化した場合の対応、栄養面での注意など今後の事についての質問をいくつかする。家の近くの国立病院への紹介状(この病院は以前から父も通っていたので安心)、口腔ケアや食事指導など。そして父の精神面の確認。

翌日、父は自宅に一時帰宅した。カンファレンスの前に病室に行ったとき、「明日家に帰るの止めようか」と突然言い出したのに驚いたが、これは父が私に遠慮しての事だった。最初に一時帰宅を実施したときレンタカーを借り私が乗り降りをおぶって手伝った。それを思い出したようだ。これに限らず今回父は私にとても気を使う。帰宅のため背広を持っていくと私のベルトと交換しようと言う。故郷で作ったヒスイのバックルのベルトを私にくれようというのだ。一時帰宅は介護タクシーが来てくれるから車椅子に乗って家にいけると安心させた。
自宅に帰った父は車椅子のまま自分の書斎を見たり、居間から庭を眺めたりした。昼食はお刺身が食べたいと言っていたので、パートナーさんとスーパーに走りお刺身と海苔巻きを買ってきた。母と二人分と思って皿に盛り付けたお刺身はほとんど一人で食べた。汁物と思って麺類の好きな父のためうどんを茹でたらそれも食べる。病院とは全く違う食欲だ。

食事も済んで休んでいるところにケアマネージャーさんがリース業社さんと来た。これから使うベッドや車椅子、玄関に使うスロープなど決めなければならない。特にベッドは何処に置くのか父の意向を訊きながら決める。リース業社さんは昨日ケアマネージャーさんが一緒に来てもらって家を見てもらいましょうと提案してくれた。パートナーさんはお茶を換えたりしながら話を聞いていて、スロープが必要な事を指摘してくれた。何人もの目で見、意見を交換することの大事を改めて感じる。
リース業社さんが帰ったあと、話は訪問介護とショートステイの話になった。当初訪問介護に訪問リハビリを加える計画だったが、リハビリというのは目標設定が必要なのだそうで、父の場合それは困難だということで、リハビリを訪問看護に変更した。介護の方が家に来る時間も決める。ショートステイは私が父に話したらあっさりと「いいよ」と言われた。あまりに簡単にOKされたので理解しているのかどうか心配になるくらいだ。しかし、送迎の車に乗って施設に行くこと、三泊しお風呂や食事の世話が受けられることなど話は通じている。事前に父には母が父の世話で倒れたりしないようにケアマネージャーさんに案を作ってもらっているからと伝えていた。父もしっかり考えてくれていたのだろう。

ケアマネージャーさんが帰り、父にお礼を言っていると介護タクシーが迎えにきた。父は病院に戻る車中何を考えていたのだろう。以前に比して無口なように感じた。

今回の函館への帰省はこの父の退院をめぐる一連の調整が用事だった。ケアマネージャーさんとの打ち合わせはメールと電話で行い、それぞれが母とも連絡をとり共通の理解を確認する。
家の片付けも大事な用件で、母はピアノや大型のソファーを処分することを決め私が業社に連絡をとった。幸い父が一時帰宅する前に必要な処分が出来た。インターネットと電話があれば離れていても段取りは組める。短い時間で必要な事はおおむね出来た。まずは及第点であろう。

パートナーさんは母にオムツなど通販の利用を紹介している。かさばるオムツを母がスーパーで買ってくるのは大変だからだ。そのオムツは医療費控除を受けることが出来る。パートナーさんが思いついて私に言ってくれたので私はネットで確認し母に連絡した。医療費控除を受けるには医者の書く「おむつ使用証明書」と利用者本人(父の名前)の領収書が必要になる。そうゆう細々した事にこれからどれだけ気づいていくのだろう。

どんなにインターネットや通販で出来ることが多くなったにしても親の顔を見、話をし、お互いの気遣いを感じながら過ごすことがなければ心は埋まらない。
だからこのブログに「父母のこと」という項目をたて、かなりプライベートなことを書いているのは私自身の慙愧だ。悔しさであり業であり闘いだ。親が身をもって私に鞭打っているのだろう。親の愛を知るというような綺麗なものではない。親が私の顔を見てくれるよう、その時が来るまで闘わなければならない。


今回函館に帰省する前には退院にあわせて私だけでももう一度帰ろうと思っていた。数日は家で一緒に過ごしショートステイの様子も見に行きたいと思っていた。しかし父は来なくていいと言う。これも父の遠慮なのだろうか。パートナーさんとも話し少し時間をおいてから帰ることにする。新しい生活が始まって問題点が見つかり意見が出てから行った方が役に立つことが出来るだろうという判断だ。そのときに向けて準備をするのも私たちの闘いだと思う。


変わること

お元気ですか?

トワイライトエクスプレスの最終便が大阪駅を11時50分に出発した。22時間の汽車旅、糸魚川を通過するのは夕方の5時半頃、函館は通らないが札幌には明日の9時52分に到着予定だ。
14日には新たに北陸新幹線が開通する。糸魚川の伯父は新幹線開通を強く希望していたが開通を待たずしてなくなった。新幹線は糸魚川の駅には4タイプある列車のうちはくたか1列車が停車するのみ。東京から2時間20分でつくことを思えば便利になると言っていいのだろうが糸魚川への影響はどの程度なのだろう。この北陸新幹線の用地のため実家は山と田畑を失った。祖父と伯父が守り育てた山は削られコンクリートの柱が並んだ。畑に向かう坂道に祖父は桜の木を植え、背負子を背負ったまま休憩が出来るようにと大きな石を運び置いたが坂も桜も石も重機で壊されてしまった。今では記憶に風景が残るばかりだ。

函館の母から電話があった。入院している父の状態が良いので退院して欲しいと病院から言われたという。現在父は介護病棟にいてベッドにほぼ寝たきりの生活をしている。肺と心臓と肝臓が悪く薬をもらっているが、一時生命力20%と言われた状態からは脱し車椅子での移動、食事が出来意識もしっかりしている。回復期のリハビリ病棟から現在の介護病棟に移り病状も改善し安定して長いことから退院を求められたわけだ。ただしベッドに寝たきりなことには変わりがない。薬が必要な事、自立歩行が出来ずベッドで起き上がることさえ困難な状態であるから自宅に帰ることは出来ない。
母も病院もその点は了解しているので何らかの施設への入所と言うことになる。
母からの電話は施設探しを病院のケアマネージャーに頼んであるが、候補が挙がった時点で私に函館に来て選定や移動を手伝って欲しいとの事だった。気丈な母だから現状の変化を受け入れることは出来るが父の変化に私も参加させようとう意図があるのだろう。
私は病院のケアマネージャーの他に現在母自身が受けている訪問ケアを担当している別のケアマネージャーに連絡し施設の選択にアドバイスをもらうことにした。普段から家の事情を承知し病院を離れた後も相談できる人が必要だと思ったからだ。
期待したようにケアマネージャーはすぐ病院と連絡をとり事情を把握したうえで私に今後の方向をアドバイスしてくれた。

その後、思いついてネットで函館の介護施設を調べてみた。高度の介護にも対応していること、母が通うのに便利なことなどが基本になるが実際に施設を見て働いている人たちの話を聞かないと判断は出来ない。

昨年の3月、私は母の怪我をきっかけに函館で暮した。それは私の生活に大きな変化であったし楽しみでもあった。病状は安定しているとはいえ終末期を迎えている父、老齢で体も弱いが気丈な性格を支えにして一人頑張っている母。その両親の生活に私とパートナーさんも参加してさぁ何が変わってゆくのだろう。明日は何が起こるのかわからない。何が起こっても人生の冒険として立ち向かってゆこう。山に登ったり、航海に出たり、旅に出るのと同様、人生は冒険。向こうからくる変化をしっかり足を踏ん張って見極めればそれは楽しいものになるに違いない。

追記)

病院に居る父は母から退院を求められていることを聞き、ならば家に帰りたい施設への入るのは嫌だと言う。母は「夜中に呼ばれたり始終あれしろこれしろと言われても出来ないよ」と言い、父もしないと言うが、家に帰るのだから何でも言える。母にしても少しでも父の望みをかなえられるのは嬉しい事なのだが家での父の姿は想像がつき、諦めか達観か希望を受け入れてあげたいと思っているようだ。しかし自分の体力では介護が無理な事は母が一番承知している。共倒れになることは想像に難くない。
両親ともども私たちと一緒に暮らすという選択肢もあるが、父は函館で最期を迎えたいと言っているのでそれも適わない。
ケースワーカーに連絡し事情を話し両親の希望をいれながら何が可能かシュミレーションを作ってもらうことにする。



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